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読書と日記

午前中原稿の足りないところを補って彰国社へメール。レイアウト後最終調整する。午後事務所で仕事。記録のチェック、クライアントへメール、昨日のクライアントリクエストの反芻、建築の条件の昔のカードの読み返し。などなど。夕方のアサマで長野へ。車中読みかけの外山慈比古『自分の頭で考える』を読み終える。この本後半はあまりに日常的過ぎて飽きるのだが、面白い指摘が二つあった。それは読書の否定と日記の否定。本来どちらもこの世代の知識人の義務であろうものだが、前者はやり過ぎるとものを考える時間を減らすことになるし、後者はやったところで気休めでしかない。ということに80過ぎて考え至ったようである。しかし50の僕も最近似たようなことを思う。10年前会社を辞めた頃、やっと暇になったから人文の古典でも読むかと読み始めた。それから早10年。まあ予定通り大方の古典にあたることは出来たように思う。もちろんまだまだ細かいことを言えば至らぬところはあるのだが、しょせん建築屋の人文読書である。さてそうなると最近手に取る本はどれもこれもそうした大きなストーリの重箱の隅をつっつくか、さもなければ何を書いているのか意味不明な独創的過ぎるものが多い。こうなると確かに今後の読書は余生の生産性を落としはしても上げることはないのではと心配になる。新たな本を手にするよりはかつて読んだ古典の中から感銘を受けたものを再読する方が意味のあることではないかと思ったりもする。多分答えは、良質な本を読みつつ、良質な本を再読すると言うことなのだろうと思うのだが、悪書に手を付けないというのは結構難しいものである。さてお次の日記であるが、これはまだ否定の境地には至らない。確かに一体何のためにこんなものを書いているのかと言えばよくわからないが、まあ寝る前の頭の体操程度のことなのかもしれない。読むだけでは頭は働かない。書くことも並行して行えとは外山氏の教えでもある。

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