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June 30, 2006

さあ頑張らなければ

今日はマイッタ。諸問題発生。事務所で緊急打ち合わせ。気を引き締めて頑張りましょう。

June 28, 2006

technological sublime

朝、k-project引渡し。ほっとする。天気も幸い明るい曇り。jt写真と10+1動画を並行して撮影。大沢さんはまた独自のアングルを見つけたようだ。出来上がりが楽しみである。
事務所に戻り、打ち合わせ。川崎の家見積もり業者を何とか選定。来週の確認に向けて進捗チェック。夕方テキサス大学の大学院生Kevin Sample君がが日本現代建築の研究ということでインタビューに来る。(彼のホームページは下記)1時間ほど設計のプロセス、日本の現場の特徴、僕にとって建築の定義とはなどなど、お話する。http://kevinsample.com/?p=13
インタビュー後帰宅。amazonからDavid E. Nyeの‘American Technological Sublime`MIT Press 1994が届いていた。
話は6年前に遡る、東大で講義したとき、講義のテーマは「質量と形式」というものだった。質料ではなく質量としたのは、質料プラス量というつもりだった。量という概念がモダニズムには主要なテーマだというのが僕なりの直感。それはモダンテクノロジーが可能とした建築の大きさのことであり、ぼくの修論のスカイスクレーパー論の帰結であるところの「スカイスクレーパーの特質はその高さから生まれる」ということに関係する。つまり建築の表現に量は重要な要素であるところから思いついたことなのである。その量は様々な現象を生むがその一つが崇高という概念に結びつくだろうなあと思っていたら、そういうことを書いている人はやはりいたわけだ。宇波彰の本に引用されていたので原書が見たくなったのであった。

June 27, 2006

ゼミ

昨日早く休んだせいか今日は元気が湧いている。つくづく体力は大事だなあと感ずる。何は無くとも体である。ゼミでは最近、フラクタルと外部視線という二つが頻繁に登場する話題である。フラクタルはそれを規則性と見るのかランダムと見るのか難しいところ。数学的に見れば自己相似性という規則性を持つのだが、人間の普通の視線で見ればこれは不規則性である。建築の研究は人間に分かる範囲でするべきであるのだが、どこらあたりまで原理的な解明が意味を持つのか良く考えないといけない。外部の視線と内部の視線という分類は建築専門誌と一般紙との言説分析の中で登場する。当たり前といえば当たり前の性格分けである。しかし外部の視線には意外な特徴もあるのかもしれない、と期待する。

June 26, 2006

疲労困憊

昨晩終電(20:04発アサマ)に乗るべく大手町駅から走った走った重い荷物を担いで人のいない地下道を走り10:02に電車に飛び乗った。息が止まりそうで何度諦めて自宅に帰ろうかと思ったことか。
オープンハウスで一日立ちんぼだったのとこの走りで今日は足が痛い。足だけではなく体中がどうも脱力感である。一昨日の松本見学の疲れもたまっているからだろう。
長野は明るい曇りだが東京は雨のようだ、新建築の撮影は強行されている模様。大沢さんいい写真お願いします。明日も引渡し後の午後も撮影か?綱渡りである。10+1の動画撮影はどうなったかな?そんなことを考えるにつけ憂鬱になる。久しぶりに心身ともに気力切れの一日。こういう日はさっさと帰って休もう。

オープンハウス

昨日はk-projectオープンハウス。張り切って午前中から行ったのだがさすがにへとへとになった。しかしそのせいか多くの方に来ていただけた。何とか雨も降らず持ちこたえホットする。坂本先生からは座式スペースの作り方についてアドバイスをいただけた。座敷空間には巾木があってはいけないのでは?という指摘には恐れ入った。「坂牛は細かいんだけどこういうところが細かくない、そして少しやり過ぎ」とは毎度頂くお言葉。毎回来ていただいている、日工大小川さん、東工大奥山さん、スチュワートさん、若松さん、松畑さん、河野さん、金箱さん、小巻さん、南さん、A0の井上君、天内君、光岡君、花田研出身の南洋堂の新宮さん、遠くから来た信大の宮尾さん、その他多くの方々ありがとうございます。
こうやってオープンハウスが終わると、(と言ってもまだ撮影が二つあり、残工事もあり、引き渡すまで緊張なのだが)少しホットすると同時にいろいろな反省点も頭をもたげる。少し時間をおいて反省会をやろうと思う。

June 24, 2006

見学三昧

信州大学は一年生は皆松本で教養。2年から専門で建築は長野に来る。今日はその一年生を連れて松本で建築見学。伊東さんの芸文と宮本さんの美術館(はす向かいに建っている)双方を見学。始めて見るので僕も楽しかった。伊東さんの建物はすばらしいなあ。まああれはプラン見てても面白いけれど本物見ると本当に良くできていると感じる。
美術館は驚いた。建物に驚いたのではなく(いやもちろん建物は良くできている)展示に。僕のかみさんの師匠上条信山(書家)の常設展示の部屋があるのである。上条先生は僕も何度かお会いしているし、結婚式(はるか昔のことですが)にも来賓で来ていただいた方である。更に再来週くらいからその上条先生の生誕百年記念の展覧会があるというのにも驚いた。
見学の後某市へ電車で移動、コンペの打ち合わせで市長をはじめ市の方と審査員、山本さん、高橋さんたちの会食の席に遅れて到着。敷地をぐるりと見学。
3時頃の電車で東京へ向かう。山本さんはお疲れのよう。来週は外国だそうだ。僕と高橋さんは茅野で降りて古谷さんの建物を見ますがと言うと、もう見たとのこと。「図書館がいいですよ」という。その言葉どおり駅からホールをつなぐ、有名な斜路状の図書スペースはここのユニークな特徴である。しかしそれ以外のスペースはとてもきれいだがそれほどユニークではない。伊東さんの建物と比べると顕著である。(一日に一気に3つ見ると良く比較できる)しかしディテールは本当に組織事務所のようである。あるいは谷口的とでもいおうか。高橋さんに「山本さんが『図書館がいい』と言っていたのは、他は普通という意味ですかねえ?」と聞いたら「そうでしょう」と答えていた。

June 23, 2006

ナンシーの分有

ジャン=リュック・ナンシーの哲学に「分有」という概念がある。分かち持つであるが、ナンシーはこれを、非人称の出来事とという観点で捉える。ナンシーの翻訳で著名な西谷修の解題では「闇の中で何かが触れる。肌に触れる。・・・・触れるているものがもうひとつの肌であれば、感じられるのは他者としての身体でありその感触が私を目覚めさせる。・・・・まさにその接触が分割=分有だと言ったらよいだろう」更に西谷はこうした分割とは他を意識するきことであり、その意識があって初めて私があるつまり「わたし」はつねに「と共にある」存在であると述べる。
難解なナンシーの理路の中でこの部分は実に腑に落ちる。そう「わたし」は常に「と共にある」存在という部分である。僕が最近建築を考える時どうしてもこうした「わたし」の周りを旋回するのである。僕の場合は接触ではなく接視つまり視線であるが、「わたし」は視線(といっても人間とは限らないが)を受けることによってわたしを目覚めさせる。建築はその視線のフレームであり同時にわたしはそのフレームから誰かを目覚めさせているのである。といコトでしか「わたし」も「建築」も現われないといえば少し大袈裟だろうか?

June 22, 2006

図書館

菅谷明子『未来をつくる図書館-ニューヨークからの報告-』、岩波書店、2003年を読んだ。元浦安図書館長の常世田良さんに勧められた一冊である。常世田さんには「これからの図書館は地域の生活支援サービスを行うところなのですよ」と教えられたが、確かにこれを読んでいるとそれどころではない。学問、ビジネス、インキュベーション、ビジュアルアーツ、写真、舞台芸術、ダンス、子供、宿題サポート、塾機能、高齢者、障害者、医療、テロ対策、民主主義、、、、この本を読んでざっと思い浮かぶ、ニューヨーク公共図書館における機能である。この図書館の蔵書は1400万点。これを90の分館であわせもっているのだが、一つの建物にすると、およそ現在建設中の丸ビル(20万平米)くらいにはなるだろう。かなり特殊で貴重な蔵書に自由にアクセスできるところが見事であり、その利用頻度の高さも驚きである。その理由は使われる情報が集められているということに尽きるように感じた。
日本の図書館もいつも混んでいて良く使われているとは思うのだが、単に本を貸すだけの機能というのがよく言われることだが実感である。本当に使える情報が本当に使いやすくアクセスできないと本当になくなってしまうかもしれない。

ここの図書館というのも悲しいかな僕にとっては殆ど欲しい本も情報もついでに空間もない。ただし総合大学の強みで松本キャンパスにはかろうじて必要な本が散見される。今日ナンシーの本が4冊松本から届いた。大学にいるからにはその恩恵に預からねば。

ジャーナリスティックな一日。

昨日は朝6時のアサマで東京。k-project現場で新建築橋本さんと会う。久しぶりである。コーナーウィンドウのあり方、プランニング○。ペントハウスの形×。相変わらず歯に衣着せぬ物言いが小気味いい。現場は植栽中。よくなっている。10時半に、その植栽を撮りに上田宏さんが来る。5カットなんとか撮る。雨がぱらつく。二人で昼食。上田さん去年は100件撮ったそうだ。あまりの忙しさに自律神経がやられたとのこと。僕も気をつけないと。食事中新建築豊田さんから℡、撮影を26日にしたいとのこと。果たして晴れるだろうか?お願い晴れて(そうしないと入居後撮影となってしまう)。
事務所にもどるとバルセロナの雑誌社linksから‘preschool&kindergarten`なるハードカバーの本が2冊届いていた。「何これ?」と思うとそのタイトル通り幼稚園の本だけど世界の20の幼稚園んが掲載されており、最初にするが幼稚園が載っている。「わ、すごい」とびっくり。
実は昨日もイタリアのareaという雑誌の東京特集にリーテムが載っていると教えられた。去年度井上智香子さんが世界のいろいろな出版社の要請でやりとりしてくれたものがこうして本や雑誌になっているということ。考えてみると、他にもいろいろ出版されそうなものはありそうだ。種を撒いておくことは。咲く楽しみがあるものだ。

June 20, 2006

火曜日

毎週同じことだけど火曜日は長い一日。朝ゼミ、昼製図、夜ゼミ。まるで高校時代のクラブの練習:朝練、昼練、放課後練と同じである。朝ゼミではとりあえずル・フェーヴルを読み終えたので、次はハーバート・リードである。午後の製図は4年生。今年の製図の授業は3年も4年も去年より面白い。理由は二つあって、taのおかげで見る人数が半分に減ったこと。それから3年も4年ももう初めての相手ではなく相手の考えていることが少し分かり始めたことと、去年教えたことが浸透してきたので、皆レベルが上がってきていることによる。このまま行くと来年はもっと面白くなる予定だが??
夜のゼミはそろそろ修士も悪戦苦闘し始めるか?今のm2は去年のm2を見ているから少し賢い。どうしたらいいのか、何を読んでどう自分の居場所を開拓して言ったらいいのかが分かってきている。しかしこれから行き詰まりがくるはず。それを打ち破らないと前に進まないだろうと思う。頑張れ。
来年僕の研究室を受けたいという東洋大の工藤研の落合君が今日の全工程を見学して先ほど帰った。お疲れ様。

June 19, 2006

ジャン=リュック・ナンシー

梅雨の合間の晴れ間である。東京も長野も30度近くまで気温が上がったようだ。本当にこの時期建物が完成するとこういう晴れ間は恨めしい。今日撮影できればなあと仮想現実願望が湧き上がる。しかし撮影が明後日なのは厳然たるもので変えようはない。
ジャン=リュック・ナンシー「はるかな都市」を読んだ。解題の文章を書くため。この文章は第一部と第二部に分かれているが前者は1987年に書かれ、後者は1999年に書かれている。ロサンゼルスについての文章である。偶然だが僕は1984年から85年にかけこの都市に住み。そして取材のために1998年にこの都市に少し滞在した。ナンシーの二つの文章の時期とぴったり合っているのにいささか驚いた。第一部の文章はまるで僕の文章を読んでいるようで、その意味で言いたいことはよく分かるが、第二部の文章はまるで詩のようでありちょっと手強い。共同体のこともかなり書かれているので『無為の共同体』をはじめ他の著作を読んでからまた読んでみたい。

June 18, 2006

これが現実

今晩長野に行こうと思ったがそれは無理。
この試合を見ずに行くわけにも行かない。
明日の始発で行こう。
pkを取られたときはもう終ったかと思ったが、川口はすごい。
宮本が今ひとつ。柳沢もかわしきれない。二人は代えたほうが良いように思う。
とりあえずハーフタイムの感想。
玉田は全然駄目。
一番仕事をしていたのは中田という気がした。
しかし、よくもまあ一点も取られなかったというのが正直な感想。
引き分けになったのも幸運としかいいようがない。

June 17, 2006

色々

9時から施主検収。指摘事項も少なく、来週のオープンハウスは何とかできそうである。渡辺組さん最後のスパートありがとう。11時頃jt豊田さん現場来訪「ヤマが横に広がったようですね」との感想をいただく。子供部屋の水色にはびっくりしていたようだ。午後奥山先生と鹿島の松口さんたちと篠原先生を訪問する予定だったが先生の調子が今ひとつで延期。そこでかみさんを呼んでポンペイ展を見る。越塚さんが画像アーカイブを作ったということで無料券をもらっていた。なぜか知らないがとてつもない混みかたで驚く。ポンペイというと僕などは発掘されたローマ時代の遺跡という認識しかないが、ヴェスビオ火山の大災害であったということがよく分かった。そして壁画の色が再現されいてたがとてもきれい。
夜テレビでドレスデン世界遺産を見る。初めてゼンパーオーパーをカラーで見た。ポリクロミーを標榜するゼンパーらしい凄い多色であった。

June 16, 2006

優秀研究に驚き

住宅総合研究財団という清水建設の社長が私費を投じてできた財団がある。その研究助成に信州大学のT先生が応募して見事採択された、私もちょっとその研究の一部を執筆するということで東京に来たついでにその研究のキックオフミーティングに顔を出した。そこで昨年の優秀研究者のプレゼンがあった。その一つの研究にちょっとびっくりした。それはとある奇病の患者の生活実態を調査してそのプランニングと患者と介護者の位置関係、患者(寝たきり)の視覚、聴覚体験と家の意味を調査した物である。そもそもこの奇病患者世の中にそう沢山いない。そしてそれを探し出しても、中々調査させてくれない。そこでボランティア活動をしながらギブティで調査をお願いしてやっと調査可能となる。そして毎日のように患者の家に通いその生活を見て、聞いて、触って実態を感得するのである。そう話を聞いていると、実態調査というより実態経験である。
こういう研究も「住宅」研究の一環としてあるのだなあとしみじみと感じそして驚いた。

June 15, 2006

音楽家の厳しさ

少しセンチな話だが、僕は小学校のとき何かの文集に将来の夢と称して小澤のような指揮者になりたいと書いたことがあった。ヴァイオリンをやっていたけれど最終的には指揮者になりたかった。小澤だって師匠の斉藤先生からチェロを習っていたことを知っていたので、弦楽器をやっていることはオケを振るにはプラスだと考えていた。だから小学校のかなり低学年からオケのスコアを読むのが趣味で一人スコアを見ながらレコードを聴いて棒を振るオタクだったのである。
ところが小澤はあまり日本にいないので聞くチャンスが無かった。やっと中学生になって第九を聞きに行ったときは感無量であった。そのころ外国からすごいのが来ると殆ど全部聞きに行っていた。小遣いは無かったが音楽会の切符と本代はいくらでも出してくれる親だった。カラヤンもメニューインもハイフェッツも、とにかくオケとヴァイオリンは行った。しかしやっぱり小澤の感動が一番大きかった。
そんな訳で小澤と武満の対談はいちいち応えるのだが、一番応えたことがある。それはあの厳しい武満が小澤が勉強不足で「おれなんか全然駄目だ」と悲観し、自分と戦っている姿を見てショックを受けたという話である。厳しい武満がショックを受けるほど小澤は自分に厳しいという話である。凄いなあーと思う。建築家(僕を含めて)なんてそう考えると本当にいい加減である。音楽家の方が厳しい。それはもう厳然とした事実だと思う。その差を埋めなければ駄目なんだとつくづく思った。そうしないと建築は何時までも似非アートである。

June 14, 2006

パーソナルか?

k-project写真を上田宏さんにお願いした。本日撮影。今日のはうまくとれているだろうか?
k-project来週のオープンハウスのお知らせをお送りしたところ、化けているというメールを数名から頂いた。かなりの人に送ったものが化けているであろう。どうも最近のこのパソコンの調子がわるい。困ったなあ!!
長野県の某市の教育会からプロポ審査員のお願いがくる。指名者も決まっているのでまあそんな大変でもなかろうとお受けした。ただ塩尻市の審査員とは異なりあまりエキサイティングにはならないだろう。地元の建築啓蒙活動と思えばその意義がないでもないが、、、、
卒業設計巡回展の図面を見た。京都大学と早稲田大学の図面はすばらしい。建築がある程度できていないとやはり駄目。どうも途中で止めましたという図面がとても多いのでこの二つは光っていた。
ベッドで武満、小澤の対談を読む。異口同音に音楽はパーソナルなものであるという話が面白かった。3000人の聴衆全員に分かってもらおうと思ってやってない、一人一人と対話しているのだという。また平均律で音を作ろうとするのはおかしいという。そんなことをしていたら日本の楽器は消滅すると言う。更に洞察のあると思う言葉は武満が、こうした現状を悲観もしないし楽観もしない、という態度。それが現状というある種の諦観である。
建築もパーソナルか?奥山が建築の作家性についてインタビューしたという。伊東さんは建築は最後はパーソナルなものと言っていた。しかし本当にそうだろうか?学生の作品も光る二つは明らかにかなりパーソナルである。それが見えないものはもちろん駄目だと思う。しかしそれが光って見えるのは僕が共有する何かを持っているからでしかない。音楽だってそうだろう。何かを共有しているそれを見つけないことには駄目だと思う。

ゼミ、ふー

ゼミが終ったら12時過ぎ、、、、と確か先週もそうだった。火曜の夜は院生ゼミ、m2の修士設計と修論。ついでに、m1のコンペ案の全員での意見交換である。まあみんなで言いたいことを言う。リアリティと夢の臨界点がいつも夢の側に振れいているようである。
朝のゼミでは、ル・フェーヴェルの『空間の生産』を読んだ。こんなもの真剣に読んだらひどく時間がかかるので、2回(4コマ)で読みきろうという意気込みで今日は半分終わりとした。こういう読み方でいいのかという疑問は残るものの、工学系の学生に対して、建築に関わる哲学、社会学の名著をとにかく数多く知らせるというのがこのゼミの主旨である。さて再来週は何にしようか?少し悩む。

June 12, 2006

現地審査

学会選集の現地審査がもう一つ増えた。住宅である。住宅の審査はクライアントにお願いするのが大変。やはり中を見せてもらうのは気が引ける。そんな権利はこちらにはないからなあ。篠原先生が無断で建物を見に行くのを強く禁止していたのはよく分かる。それなら自分の親戚とか自分の家建てるのが手っ取り早い。今のところ無理だけれど。大学定年になる頃までには自邸を作りたいと思うのだが昨今の金欠を考えるととても無理という感じ。かみさんにも諦めたらと言われている。かみさんの書を高値で買ってくれる人とか奇跡的に現われないだろうか??

June 11, 2006

音楽の空気

武満徹の展覧会を見に行ったので武満と小沢の対談を買って読んでいたら、空気の話が書いてあった。空気は音楽に強く影響する。最近の演奏会場は空気が大事にされていない。やたら音を吸い取り、音が空気と響いている感じがしないという。
ホールも日本のホールは残響が短いのだろうか?短いほど几帳面な音になると思うのだが、ボストンあたりは長いのか?あまり指揮のサインを几帳面に出す必要がないという。また楽器は生まれた空気のところでないといい音がしないとも書いてある。武満のノヴェンバー・ステップをニューヨークで演奏したときは、尺八は割れるし、琵琶は濡れタオルで包みセロリの葉を巻いて乾燥を逃れたと書いてある。うーんそうか日本の楽器は湿気を好むのか。
ヴァイオリンはまったく逆で梅雨になると音が出なくなるのである。箱は湿気ると響かなくなるし、弦は伸びるので音程がどんどん下がる。冬はそれに比べて実に良いのである。武満も書いている。日本のヴァイオリニストは海外に行くと(湿気がないと)うまくなったと誤解する人がいるようだと。

June 10, 2006

スライドで見る写真

朝、かみさんと都現美にカルティエコレクション展覧会を見に行く。光岡君が川内倫子が良かったというのを聞いていたので、時間がないからそれだけ見ようと出かけた。しかしその前に登場したロン・ミュエクの巨大人形とデニス・オッペンハイムの論争する人形の、ふたつの人形で今日は十分堪能。
川内さんの作品は既に写真集で見ていた。それに加え、ああいうくらい部屋でスライド風に見せられると写真のよさが薄れるように感じられた。写真家の作品をプロジェクターで映すという見せ方はいくつかあったが、これはあまり良くない。暗い部屋に入った瞬間にもう気分は映画になっている。そこでシンプルな写真画像を解像度低く見せられると、それはもう写真ではない。メディアはメッセージであるというマクルーハンの言葉どおり、映画と言うメディアで写真を見せるということはケーキを箸で食べるような気分である。作者はそんなことを見越してはいると思うのだが、成功しているとは思えない。
午後、k-projectの事務所検査、3時から7時まで、やや修正もあったがまずまずの出来だと思う。もちろんチェック項目は沢山ありそれを速やかに改善してほしい。

住宅論

昼からリーテムの打ち合わせ。今日はクライアントの出席者が少なくてまいった。夕刻若松氏から℡。オープンデスクで学生の受け入れをお願いする。快諾していただく。ありがたいことだ。しかし内の学生は分かっているのだろうか?オープンデスクにいくと言うのはその人の建築を心から好きで敬愛してやまないから行くのであって、ただ建築の実習に行く程度の心構えで行くのならやめて欲しい。だいたいそんなつもりで行ったら相手に失礼だ。今度よく言っておこう。
夕刻東工大の奥山氏が来所。住宅論の打ち合わせ。建築における通時性を考え、つまり作品の歴史的な背景と未来への展望を考える中で、共時性、つまり現代性をどう担保するかという問題を議論した。この議論は住宅を考える本のインタビューの骨子であり、論文の寄稿をお願いする人への問いである。議論は煮詰まるが、うまい言葉は見つからず二人で宿題とする。8時くらいになって腹が空いたので二人で食事。昨日の講評会の話などした。安田さんの選んだもの、藤田氏の選んだものなどをつまみに、話は盛り上がる。次回講評会に来てもらうことを約束。しかしどうも間違えて日時を伝えた。彼は火曜日は空いているということだから7月11日の4年に来てもらおうかな。

June 9, 2006

講評会

昨日は製図第三、三年生課題の講評会。東京から、東工大の安田氏と竹中工務店の藤田氏をお呼びした。遠路はるばるありがとうございます。
今の三年生は2年の後期から見ているが、2年のときはプロスペクターの今村氏、山本氏にゲストで見ていただいたし、デザイン論ではレポートをみかん組みの竹内氏に見てもらった。
課題は三沢浩が40年前に設計した蔵春閣というコンクリート打ち放しの建物をコンヴァージョンするというもの。敷地は東山美術館の近くで城山という小高い丘の上にある。建物自体かなり個性の強いものであり、それとどう立ち向かうかはかなりの難問であることは事実である。用途を何にするかは学生の自由である。ホスピス、足湯、教会、ホテル、食の空間、などなど。
学生の案を見るのも楽しみだが、ゲストを呼んだときは、ゲストの話も興味深い、つまり、ゲストが何を評価し何を否定するかという点である。もちろん知らぬ人を呼んでいるのではないから、うすうすその人の主義主張は知っているつもりだが、それでも、「ああこういうものをいいと言うのか」と改めて感じたりすることはしばしばである。二人にはそれぞれ安田賞、藤田賞を選んでもらった。後日ホームページにアップしたい。
研究室の学生と二人の先生で食事、場所はなんと若き日の林雅子設計の守谷商会(今は引越して飲食店などが入っているが)の小料理屋である。安田氏は明日6時の新幹線で京都へ、藤田氏は8時から打ち合わせとのことで9時の新幹線で東京へ帰られた。ご苦労様でした。

June 7, 2006

打ち合わせ

朝一東京、そのまま横浜、山本理顕さんの事務所へ、高橋晶子さん、某市の方々3名、11時から打ち合わせ。終ったら3時半。いや参った。根詰めた打ち合わせだった。東海道線で東京。事務所に戻り、打ち合わせ。北京からの回答書が届いていた。日本語訳が下手なせいか、読んでいると少々頭が痛くなる。しかし見積もり三社のうちここだけ3割以上安いので、その理由がつかめず困っている。他の二社は日本的サービスをします。ということなので、その分高いのはまあ分かるのだが、それでは中国的に乗っかると何が起こるのか?想像できない。その後川崎の打ち合わせ、外樋を付けたくないということでもう数ヶ月内樋のディテールを思案しているのだが、考え方をかえることとした。内樋ではなく屋根の端の方に土手を作ることとした。それから勾配を変えて雨の行く方向を限定することとした。なるべく厳しいディテールの箇所を減らすという考え。ケント紙を切って外形ラインを模索。あるところでやっといい形になってきた。コレでいこう。
明日の某クライアントとの打ち合わせはナカジにお任せ。帰宅、夕食を食べ、今日は自宅泊。長野は早朝に行こう。明日は製図第三の講評会。安田氏と藤田氏がやってくる。学生の奮起を期待する。

基礎概念

ゼミが終ったら12時を回っている。明日は7時半の新幹線で東京、横浜。
今朝はシュマルゾウの『芸術学の基礎概念』を読んでいた。そういえば基礎概念というのが流行っていて、フランクルの『建築造形原理の展開』は復刊されたら『建築史の基礎概念』になっていた。井上君が音楽の翻訳本で原題はそんな言葉が入ってないけれど『音楽史の基礎概念』という本があると言っていた。ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』やウエーバーの『社会学の基礎概念』はとても有名だが、「基礎概念」というのは売れるタイトルなのだろうか?

June 5, 2006

学会賞

建築学科の中込先生(構造)が建築学会論文賞を受賞した。と言うわけでお祝いの会を学科で開いた。いつも生協の揚げ物しかないのに、今日は刺身に寿司。豪勢な会である。信大の建築学科もやっと世に認められたということだと。若い先生もコレに続けと。奨励賞を取れと。大会には絶対発表せよと。中込節炸裂である。更に、就職もどこで大丈夫だと。日建だって入れるぞ!!と相槌を求められたので、思わず唸ってしまった。
もう少し時間がかかるだろうなあ。高橋さんも武蔵美着任時はどうなることかと思ったけれど、3年たってだいぶ変わったと言っていた。まあ最初(2年)から教えた学生が院に行く頃にはだいぶ意識が変わっているだろうか?
とネガティブなことばかり言っていても仕方ないからまあ明日のゼミやら、明々後日の講評会とか期待しよう。

A0

A0の勉強会、ColominaのSexuality and SpaceとVidlerのWarped Spaceから各自面白そうな論考を一つづつ読んできて発表。コロミーナの‘sexuality and space`はプリンストンで行われたシンポジウムの記録ということになっているが、載っている論文はかなりキチンとした論文である。Lynn Spigel の論文The Suburban Home Companionは40年代アメリカの郊外住宅の中でテレビが男女の性差をどのように構造化したかを跡付けている。またMark Wigley の論文 Untitled:The Housing Genderはアルベルティの建築論の中から家族論を対象に空間が男女性差を確立しているというユニークな着眼点の考察を行っている。sexuality かgenderかという問題はさておき、トピックが面白いし、資料がしっかりしているようである。一方ヴィドラーは論文集ではないがパートが二つに分かれており、前半は近代の不安や恐怖の一般論、後半はそれに即した作家紹介という形で前半を誰も読んできていないので、まだ全体像がつかめていない。
双方面白そうだが、もう一回内容を見る勉強会を開くこととした。教科書は、Geoffrey ScottのArchitecture of Humanismも加えることとした。
夕食後長野に、車中D.A.ノーマンの『誰のためのデザイン?』を読む。認知科学者のデザイン原論と副題がついている。家電製品の操作の分かりづらさはデザイナーの責任という話しである。では分かりやすくするためのポイントはというと、視認性(visibility)と対応づけ(mapping)と彼は言う。つまり操作器具は何をするものか対応関係が明確で操作した結果が目で見えなくてはいけないということである。当たり前のことだが、なるほどと思う。

June 4, 2006

仙田先生退官パーティー

昨日は、早朝ジョギング。途中四谷図書館で本を返却し、新宿御苑まで行った。環境月間の土曜日なので入場料無料。数十年ぶりで入場。巨大芝生広場にいるのは自分だけ。nttのエンパイアステートのようなビルが見えるだけ。爽快。帰りは浅野屋(軽井沢にもお店の在る美味しいパン屋)でバゲットを買う。
朝食後論文やら、読書やら、2時から仙田先生の退官記念パーティーがあるので昼食はとらないで我慢。
パーティーは国際文化会館で行われる。会場に着いたら受付は長蛇の列。仙田先生の交友関係の広さが伺える。あの大きなホールに人が溢れ庭も人人。出版関係、施工関係、いろいろ飛び回り挨拶。
八木先生:先日講評会に来られなかったことを謝られた。
安田さん:先日のお礼を言われ、信大講評会の時間確認。
林さん:芦原賞見学会の祝電にお礼。
坂本先生:お元気そうで。
香山先生:『言葉と建築』にお褒めの言葉を頂戴。激励される。恐縮しました。
堀池さん:お久しぶりです。
横山(東工大の材料の先生で同期):元気そうとは言えない。少し痩せたほうがいいよ。
小倉善明さん:久しぶりです。芦原賞よかったねと激励された。
菊竹さん、谷口さん、只野さん、奥山、などなど人が多すぎて言葉もかわせず。
パーティーでいろいろ食べると思っていたら祝辞が長く、何も食べられず空腹のまま現場へ。
k projectの現場定例。だいぶできてきた。大工や塗装屋の腕が比較的いいので、安心して見てられる。ただ最後まで気を抜かずやってもらいたい。照明の色がばらばらなのを修正するように担当に指示。今回は今まで使ったことの無い寒色系の色を使おうと思い立ったのだが、クライアントが色好きで空色がグリーン系になり少し意外なインテリア。でもこういう予想外の展開も建築の楽しさではある?
半ばくらいにオープンハウスをしたい。
帰宅後近くのすし屋で家族で食事。朝のジョギングで体が熱く。ベッドで文芸春秋を読んだまま眠りに。

June 2, 2006

上流社会

昼食をともにしたある方は「僕は既に一生生活に困らないだけの所得を得た」と言っていた。世の中にはこういう人もいるのだなあとびっくりした。羨ましいとは思わないが、現代の日本では、何かの拍子にそういう人生を歩む道に入ることが可能であるようだ。そしてつまりそういう道が用意されているということなのである。そして必ずしもそういう道はあまり公にはなっておらず、(というのもその方もその道に進めばそうした給与を得られると意識してその道に進んだわけではないのである)かなり偶然そういうことになったようなのである。そんな世の中が少々不思議だったり、面白かったりした。でももちろん努力と粘りと能力があってのことであり、頭が下がる。

June 1, 2006

建築家という宿命

梅雨前の夏日。これから梅雨になると思うと憂鬱である。梅雨とか台風とか建築家にとっては魔のシーズンである。
去年金箱さんが松井源吾賞をとられた時、受賞パーティーの祝辞で原さんが言っていた。「昔は台風が来ると自分の設計した建物をそれて行くことを願っていたけれど、最近はどこを通っても自分の建物があるので逃げられない。でも金箱さんの設計はそんな心配を吹き飛ばしてくれる」本当にそうだ。建築家とは因果な商売で自分の建物が建っているそばに行くと気が休まらない。自分の設計したものによって豊かな生活が送れているだろうか、何事も無く平和に過ごしているだろうか、いろいろなことを考えてしまう。そして年をとればとるほどそういうものが蓄積されるのである。喜びも増えるが心労も増える。一生付きまとうのである。