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ナンシーの分有

ジャン=リュック・ナンシーの哲学に「分有」という概念がある。分かち持つであるが、ナンシーはこれを、非人称の出来事とという観点で捉える。ナンシーの翻訳で著名な西谷修の解題では「闇の中で何かが触れる。肌に触れる。・・・・触れるているものがもうひとつの肌であれば、感じられるのは他者としての身体でありその感触が私を目覚めさせる。・・・・まさにその接触が分割=分有だと言ったらよいだろう」更に西谷はこうした分割とは他を意識するきことであり、その意識があって初めて私があるつまり「わたし」はつねに「と共にある」存在であると述べる。
難解なナンシーの理路の中でこの部分は実に腑に落ちる。そう「わたし」は常に「と共にある」存在という部分である。僕が最近建築を考える時どうしてもこうした「わたし」の周りを旋回するのである。僕の場合は接触ではなく接視つまり視線であるが、「わたし」は視線(といっても人間とは限らないが)を受けることによってわたしを目覚めさせる。建築はその視線のフレームであり同時にわたしはそのフレームから誰かを目覚めさせているのである。といコトでしか「わたし」も「建築」も現われないといえば少し大袈裟だろうか?

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