○○計画の無意味さ
先日読んだ山崎亮『コミュニティデザイン』の中で役所が作る総合計画批判がされていた。というのもこういうものは規格があって、その規格を作り慣れたコンサルに外注されて内容をよく吟味されずにできあがってしまう。よってできたものは当の役所の人間だってよく知らず、もちろん住人はその存在さえ知らない。住人が知らないその町の将来像ってなんの意味があるのかと著者は問う。
そうだよなあと思いながら馬場正尊『都市をリノベーション』NTT出版2011を読んでいたら似たようなことが書かれていた。「戦後六○年、日本の都市計画の主な手法は一貫してマスタープランを描きそれに向け作業を進める・・・・(しかし)・・・都市を取り巻く状況は複雑になりすぎ、・・・能天気に新しい線をひくほど無頓着ではいられない」
山崎住民不参加の計画を無意味と言い、馬場は計画自体を無意味だと言う。山崎はまだ計画に期待をしているが馬場は既に計画を放棄している。
理由はどうあれ2人は今でも役所にはどこでも並んでいる例のあれ、小奇麗にまとまって虫唾が走るような笑っちゃう美辞麗句の並んだ○○計画、とか○○マスタープランを否定している。
何て言う話を先日八潮市役所の方に話したら(彼らは世の中一般の役人ではない。そういう計画を作ることの無意味さをよく知っている例外的な先進的役人たちである)こう言っていた。
「昔は役所のやることは正しいということになっていて住民はそれを聞くことになっていたけれど今は違いますからねえ」と。さすがよく分かっている。