デタッチからコミットメントへ
事務所、大学、会議。今日の会議は長い。結構重要な案件が並ぶ。夕方東京に来ているカナダの友人と再び会う。彼は原宿に二日泊まり、浅草に二日。そして今は池袋。一体どんな場所かを見てみたくその場所を尋ねてみた。西口公園を通り過ぎて駅から歩いて10分。KIM INNという日本スタイルの素敵なホテルのような旅館だった。ラブホテル街の中にあるのでこんな場所に一般人はまあ気がつかないのだろうが一泊4千円くらいで泊まれるコンクリ―ト造の小奇麗な所である。玄関を開けるとティロが上がり框に座っていた。一体どうやってこう言う場所を探すのかと聞くと、世界のヴァナキュラーな宿泊施設がゲスト評価付きで載っているサイトがあるのだそうだ。
岐阜出身の研究室の学生に勧められた飛騨牛の店に行った。静かでゆっくり話のできる気持ちの良い場所である。とにかく会話が止まらない。26年分の尽きぬ話が次から次に飛び出す。時間よ止まれという感じである。言語の壁は全くない。本当にハッピーな時間である。
彼が村上春樹の1984を読んだかと聞く。恥ずかしながら読んでいないけれどどうして?と聞くと、これが日本の現代の感覚だと言うので読んでいるが正しいかと聞きたかったと言うわけである。恐らく正しいと答えた。
そう言えば昨晩読み始めた宇野常寛『リトル・ピープルの時代』幻冬舎2011は村上春樹分析で一章費やされている。その中に「デタッチメントからコミットメントへ」という節がありびっくりした。というのもこれは僕がある建築雑誌に書いた短い論考のタイトルと同じだったから。あれ?と思ったのだが、その節を読んでみるとそれは村上の言葉だったことを思い出させられた。それは「関わらない」ことから「関わる」ことへという意味である。思い出した。僕はその頃村上に大きく影響を受けて建築においても「関わらない」ことから「関わること」が可能かを考えていたのである。未だ日建にいたころである。
そして今その考えはもちろん更に強くなっている。とは言え世の中には社会にディープにコミットする人は沢山いる。僕はそんなにコミットすることができる人間ではないし、そういうことが余り得意ではない。あるいは好きできない。でもライトにコミットすることが必要だろうとは思っている。そんな感触が村上なのである。
というわけで友人ティロに村上の考えは現代人の(僕もその1人として)ある側面を確実に表していると思うと伝えた。彼は納得したかどうかは分からない。それは2週間の滞在の中でなんとなく感じ取ってくれればいいことである。
僕のルームメイトで彼の友人でもあったクリスタとミュンヘンかバンクーバーか東京で再び会おうと約束して池袋を後にした。幸せなひとときだった。