建築学科の女子が元気な理由
何故建築学科で女子学生が元気なのかというと理由はいくつか考えられる。草食男子が増えたから相対的に女子が肉食的に見えているから。女子はまじめなので成績も上がり就職もよくなってきているから。女子学生の比率が増え教室に女子の声が響き渡るから。どれも一理あるが、でも建築意匠的にはもっとしっかりとした理由がある。
僕は前々からモダニズムが形相(形)の革命であり、近代とは形相(形)優先の時代が美学的にセットされ、それゆえ質料(素材)がないがしろにされた時代であると考えてきた。ところが話はそれほど単純ではないことが少し分かってきた。
キャロリン・コースマイヤー(Korsmeyer, C)長野順子他訳『美学―ジェンダーの視点から』勁草書房(2004)2009は古来芸術概念の基軸である二元論がおしなべてジェンダー化されてきたことを跡付けた。
精神vs身体、形相vs質料、知性vs感覚、文化vs自然という対概念の前者が男性、後者が女性と漠然と繋がっており女性的な概念は常に芸術の評価や本質として劣るものとして位置づけられてきたと彼女は説明する。
つまり僕がモダニズムを席巻したと考えた「形相」は彼女に言わせればいくつかある男性概念の中の一つに過ぎないというわけである。だからモダニズムアートそして建築は男性概念によって単に形相重視なだけではなく加えて精神的で知的で文化的なものとなったのである。
さてそんな男性概念に文句を言った嚆矢は建築ならポストモダニズムでありアートならポップアートのころである。そうした異議申し立ては初期のころはモダニズム否定にやっきになっていたのだが世紀を跨ぐころになると女性概念に流れて行った。つまり身体的で質料重視、感覚的で自然なものを標榜し始めたわけである。それを過激に展開しているのが
フェミズムアートであり、身体・質料・感覚・自然と言った概念は未だにジェンダー化されており社会の中では女性が担うものなのである。それゆえ建築学科においても彼女たちは元気にならざるを得ないのである。
さてではそうした女性的価値観を全面的に後押しすることが妥当かと言うと僕はそう思っていない。こうした二元論は注意を要する。Aという時代の流れはちょっとしたきっかけでアンチAに流れやすいがそれが長続きしないのは近いところではポストモダニズムが実証済みである。二元論は往々にして中庸に収束するものだと僕は思う。極端な逆暴走は極端な「かわいい建築」を量産するだけである。そういう過渡的な傾向は長続きしない。男性性を破壊しながら女性性に走るのではなく中性へと世の中は流れる。と僕は思っている。