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昼から飯田橋で坂牛研究室の集まり。信大生5人くらい(おおなんと少ない)理科大生50人くらいが1時から4時まで楽しんだ。巨大スクリーンにOBたちの作品を写し、現役生も負けじと研究室プロジェクトを発表。それぞれなかなか面白い。発表しない人たちも携帯に模型写真などとってきたのを見せてくれた。いいよねえ皆の作品を見ると元気がでる。老化防止にこれからもみなさんよろしく。2次会の途中でいかねばならぬオープンハウスをを思い出し、横浜へ。冨永美保さん伊藤孝仁さんによるcasacoというシェアハウス+カフェをみに行った。制作プロセスを図式化しコトの流れをかいたフローチャートを見ながら建築の自律性と他律性に想いを馳せた。今作っている自著architecture as frame and reframe も同様の問題系を孕んでおり考えさせられた。
2次会に戻ろうと思ったが遅くなって戻れずすいませんでした。
中村とうよう『ポピュラー音楽の世紀』岩波新書1999によればポピュラー音楽とは、クラシック音楽と民族音楽の両方の要素を兼ね備えたものだという。クラシックが天才の才能に依拠している一方で、民族音楽は一般の人々の日常生活の中かから生まれる。ポピュラー音楽は天才の才能が資本主義による商品市場で大衆と結びつくことで大衆が欲求する音楽として生じるのである。
この音楽の生成位置はというとブルースがその典型であるがその最初の波は大衆の下層からサブカルチャーとして生まれそれが商業主義に取り込まれメインカルチャーとして広まるのである。
さてこうした文化の生じ方は音楽に特有というわけでもない。ポップアートも商業市場を意識したものであり、ファッションはいうまでもなく、そして建築も、政治も今やポップの側面を持っている。スターアーキテクツもトランプも原理は結構近い。
ポップアートのことを知るのにLucy R. Lippard が60年代に編著したPOP ARTの主要部分を読んでみた。目からウロコ。POP ART はグリンバーグがポストペインタリーアブストラクションと呼んだエレズワース・ケリー(1923〜2015 Kelly, Ellsworth)やケネス・ノーランド(1924〜2010 Noland, Kenneth)とそのヴィジュアルにおいて多くを共有していると指摘していた。ポップは具象で抽象表現主義とは繋がらないと思っていたが、確かにその色使いや形の大きさや大胆さにおいて多くの共通点がある。
そういう繋がりで言うと。抽象表現主義のポロックたちはそれ以前の二つの流れである、抽象とシュールレアルのシュールレアルの自動筆記とつながっている。これも普通だと抽象とつながるとみたくなるがそうではない。一見切れ切れに見えるアメリカンアートはこうして一つの流れの上にあることがやっと見えてきた。
柳澤潤さん率いるコンテンポラリーズの展覧会のオープニングで黄金町ガード下を初めて訪れた。このガード下はワークステーションや宮晶子さんも手がけており面白い場所になっている。
柳澤さんはある頃から人々が自由に出入りできるコモンズとしての建築を目指し始めた。塩尻のエンパークはそのいい例である。その後も役所がらみの公共空間を多く作っているようである。そのチャレンジの成果を見るにはもう少し時間が必要だが彼の人間性と底力は必ずやいい結果を残すものと期待している。
⚫Armory show catalogue 1913
⚫Cubism and abstract art catalogue 1936
⚫Fantastic art, Dada Surrealism 1936
⚫New American Painting1958
戦後アメリカモダニズムアートはすぐに抽象表現主義と言いたくなるのだが、そこに至る経緯をきちんと押さえきれておらず、いつかきちんと勉強せねばと思っていたのだが、いまポップアートを書くにあたり、その前段階をきちんとおさらいすることにした。そのためにまずMOMA初代館長のアルフレッドバーについて読み彼がつくったMOMAのカタログ3つ
⚫Cubism and abstract art catalogue 1936
⚫Fantastic art, Dada Surrealism 1936
⚫New American Painting1958
とMOMA以前のアメリカ美術史最大の事件と言われるアーモリーショウのカタログの4冊をアマゾンusa で購入した。
モダニズム絵画はアブストラクトとシュールレアリズムの二つの流れがぶつかり、それを寛容に受け入れたのがペギー・グッゲンハイムであり、ちゅ小表現主義は実は抽象のながれではなく、シューレレアリズムの自動筆記からきているというのがバーの読みなのであった。
その昔谷川渥氏は講演でモダニズムとはイズムの時代だったが60年代ポストモダ二ズムへと移行し始めることアートの乱立する時代へと変化したと話、弱冠27歳にしてMOMAの館長に就任したアルフレッド・H・バーJr(Alfred H. Barr Jr.1902 ~1981)の作った20世紀美術の系統図を使用していた。それはバーが34歳の時に作った図である。それ以来この図の作り方が気に入っていたのだが、今日大坪健二『アルフレッド・バーと入ヨーク近代美術館の誕生-アメリカ二十世紀美術の一研究』三元社2012を読んでいたら23歳の時彼は似たような図を書いているのに驚いた。それはプリンストンにてチャールズ・ルーファス・モーリィーのもとで美術史を学んだ後にハーバードで描いたものでモーリィーの教えのたたものだと解説されていた。
バーはプリンストンとハーバードのカラーの異なる二つの美術史の影響を強く受けたと言われているが、この系統図にはプリンストンの名残があるということのようである。
大友良英のレコードプレーヤーオブジェを都現美で見た。その昔、リーテム工場のヴィデオを作ってもらった時に大友さんに音楽を作曲してもらった。吉祥寺のスタジオで大友さんをはじめSachikoMなどそうそうたるメンバーで大友さん作曲の音を録音した。その時に雑談でクリスチャンマークレーの話になった。大友さん曰くクリスチャンも昔はタダのミュージシャンだったのが最近では(というのはすでに5年くらい前の話だが)アーティストだよ。アーティストの方が全然儲かるみたいと言っていたのが、今や大友さんもメジャーアーティストではないか!!凄いなあ!!思っていることを実現してしまう人。
都現美の周りはどんどん変わっている。都築響一が『東京右半分』を書いて東京は東から変わると言い、今面白いのは足立区、葛飾区、江東区、荒川区、、、、なんて予言したのは2012年。的中?
小学校のころ日比谷公会堂でメニューインのライブを聴いた。演目はベートーベンのヴァイオリン協奏曲。それ以来異なる演奏者でいろいろ聞いてきたが、昨晩you tubeでコパチンスカヤのベートベンを聴いて感動した。
彼女の音はよく聞けば
① 気を入れてきちんとビブラートかける音
② 気をぬいてビブラートもかけず弓の先っぽの方で流す音
③ 僕には聞こえない音(?)
である。つまり俗な言い方をすると彼女の演奏は何を弾いているかより何を弾いていないかを聴くことにその受容の妙がある。
そしてこれらの音が並ぶとメロディーは必然的にとても不連続的に、しかしドラマティックな展開となる。おそらく僕が都市や建築に期待する不連続性はコパンチンスカヤの視覚版である。
一流の音楽家の多くは①のみで音楽を構成し、一流の建築家視覚版①をおこなう。でもぼくにはどうもそういう建築が息苦しい。②を交えた建築にいつも憧れどこで②をやるかあるいは③を組み込むかを考えてしまう。
増田英樹、古田善文『図説 オーストリアの歴史』河出書房新社2011、加藤雅彦『図説 ハプスブルク帝国』河出書房新社2015、菊池良生『図説 神聖ローマ帝国』河出書房新社2009、という3つの歴史参考書を読んでやっとこの辺りのヨーロッパの歴史が飲み込めてきた。一番腑に落ちたのは一体なぜヨーロッパは一つにまとまろうとしたのだろうか?そしてそれが可能だったのだろうかということに対する回答としてそれはもとももと中欧(ミッテル・オイローパ)というまとまりがあったからであり、それはもとを多々出せば神聖ローマ帝国であり、それを形成したハプスブルクというファミリーだったという説明である。それにしてもローマという概念の継続性には恐れ入るが日本という概念の継続性は負けず劣らずシブトイ。やはり島国だからなのだろうか?
前から美術館の課題をやりたいと思っていた。それもthe美術館といういわゆる美術館である。でも今までやらなかったのは美術館を設計したことのある非常勤の方がまとまっていなかったからである。今年はできるなと思いやることにした。
僕が学生の時、美術館の課題は大高正人さんが非常勤で来て教えてくれた。ちなみに小学校は香山さん、ショップは倉俣さん、劇場は磯崎さん、ホテルは伊東さんというふうに教える人はその課題の経験者だった。ということを学生たちはきちんとわかっていたし、だからこそ彼らの言葉に重みがあった。なので今でも非常勤の方をお願いする時は課題を考えながらお願いしている。
学生は分かっているし今やネットですぐさま調べがつく。この人は一体この設計の経験があるのかないのか。僕もそんなにレパートリーがあるわけではないからやったことないものは正直に学生に申告している。
手術の経験のない医者に(そんな医者いるかどうか知らないけれど)手術の授業を受けてもリアリティないだろうし。
とある人に言われた。あなたのブログはセルフブランディングとして機能していると。その後、話はちがう展開をしたので彼が何を言おうとしているのかはよくわからなかったのだが、まあブログが僕の人となりをよく示しているということなのであろう。日記を公開しているようなものだから僕の性格がにじみ出ているのは確かである。そうしたら先日またとある人に似たようなことを言われてついでに自分のアイコンを作ったらどうかと言われた。自分のアイコンなど作る気はさらさらないのだが、牛の柄(ホルスタイン)は昔から好きでマウスパッドもそれを察知した学生が寄贈してくれた。ということでこの柄を図案化して何かに使ってみようと考え始めスケッチを開始した。さてどこで使えるか?
千葉雅也と蘆田裕歴の対談「ファッション批評の可能性と条件をめぐって」の中で千葉はファッションの公理系は金と作家以外のオルタナティブは無いのかと問うている。これって建築でもいえるのだけれど最も多いのは建築の言説も金と作家だと思う。しかしこれって実はゴシップ週刊誌のネタとしても最も多いものではなかろうか?金と人ほど俗に面白いテーマはないということである。このネタ外すとつまり売れない。売れない批評はいらないというそういう構図が日本にはあるのだと思う。そうなると、千葉さんが次にいうのは批評の一回性である。つまりアカデミックな客観性は回避して、一刀両断に言い切ってしまう批評である。おお怖い。でも怖いもの見たさというのがあってそういう批評はそれはそれで受けるわけである。
ファッションの起源は宮廷貴族の服飾デザイナーが独立してオートクチュールを作り始めた所にある。その最初がシャルル・フレデリック・ウォルトである。オートクチュールの顧客は20世紀半ば約2万人いたが、現在は100人代と言われている。オートクチュールの顧客は高級プレタポルテで欲求を満たせることを知ってしまったのである。加えて現在では昔ならオートクチュールを着ていた階層の人々がギャップやユニクロなどの製造小売業の衣類を着る時代になった。
建築も状況はかなり近く、昔ながらのオートクチュールで顧客によりそうアトリエ建築家がいる一方で、世界中で半ばマニュアル化した設計手法を駆使してグローバルに仕事をする製造小売業のような設計事務所、設計施工の会社がまさにプレタポルテのごとく大量大規模な生産をしているのである。
果たしてオートクチュールは無くなるのであろうか?ファッション界の予言は難しいが建築界では残る。高級高価なものは減少するかもしれないが、普通廉価なオートクチュールは残るだろう。なぜなら今世界で求められている小さなローカリティーへの対応は製造小売業型の設計事務所ではできないからである。アルゼンチンのエスニック民族の現在住居群を製造小売業設計事務所は設計しないからである。
野生の建築家はその意味では日本にいるだけでは今に絶滅するだろう。製造小売業が世界のマネーに食らいつくように野生の建築家も世界のローカリティーに食らいつくしか生き延びる道はない。そう思って僕は世界を嗅ぎ回っている。
人生訓みたいな話を聞いたとき、それを受け入れるかどうかは、その話の内容の真実さによるのではなく、その話をしている人の生き様に納得がいくかどうかにかかっている。というのもその人はその言葉によって成長してきたのだからその言葉を受け入れればその人のようになっていくからである。
人生訓とまでいかなくても建築のエスキスチェックの言葉の半分はそれに近いようなところがある(半分は技術的に真偽がはっきりしている問題である)。だからそのエスキスチェックを受け入れるかどうかはそのエスキスチェックの真実さによるのではなくそのエスキスチェックを語る人が作ってきたものに納得がいくかどうかにかかっている。
その意味では現在僕らがやっているように教員が自分たちの作ってきたものを示し学生が教員を選べるシステムは妥当だと僕は考える。もちろんどこでもそんなことができるわけではない。私立大学で学生も先生もたくさんいるからそういうことが可能で、国立大学ではそれは不可能である。僕が非常勤で行っていた国立大の3年生は否応なく全員が僕のエスキスを受けねばならなく彼らに選択権はなかった。
話を人生訓に戻すと、大学の教員はあるところでは専門領域を離れて人生訓的な話をする機会もあるのだが上記のとおり、そこで重要なのは自らが依拠した人生訓を晒すことではなく、彼らが依拠すべき人生訓を想像することなのである。そんなことはほとんど不可能に近いのだが、唯一やれて、やるべきことは自分が依拠した人生訓とそれによって自分が培った価値観を相対化することである。そしてその上でそれを前提にした上で、自らを晒すなり、殺すなり、そこからは自由である。
水野大二郎+ファッションは更新できるのか?会議実行委員会『ファッションは更新できるのか?会議——人と服と社会のプロセスイノベーションを夢想する』フィルムアート社2015の中に水野大二郎は「ひろがりとゆらぎ、角度と精度、ひとりで速くとみんなで遠く—インターネット全体社会のファッションデザインを想像する」という長いタイトルの論考の中でこれからのファションデザイン界を上のマトリックスにまとめている。
このマトリックスは横軸に、個人⇄組織、縦軸に、遠く(間接ビジネス)⇅速く(直接ビジネス)が設けられている。つまり従来の個人ブランドは左下、組織ブランドは右下でありこれらは原則ビジネスとして商品を作っていた。それは基本的には世界的に成長することを目標としていた。一方マトリックス上部はセルフクリエートの場を想定しており原則ビジネス的ではない。そうした野生のクリエーターが集団化すると新たな創造が生まれる。
そんな図である。このマトリックスが実に建築界にもあてはまるので赤で少し書き込んでみた。この場合左上のセルフビルドの野生の建築家は単に生きられた家を作っていた住人を超えた存在と言えるだろう。その野生の建築家が集まったところに生まれるさらなるクリエーションはまだそれこを夢想段階である。
テラスでハイウェル・ディヴィス(Davis, H.)、桜井真砂美訳『ブリティッシュ・ファッション・デザイナーズ』ブルース・インターアクションズ2009(2009)を眺めた。昨日読んだfashion visionariesで世界のデザイナはパリからロンドン、アントワープに重心移動しているその興味の先にこのブリティッシュファッションの本がある。27人のデザイナーが取り上げられその反骨精神としてのブリティッシュファッションが語られる。そして27人のうち15人つまり半分以上がセントラル・セント・マーチンズ・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザイン出身である。もはやこうなると世界に冠たるファッションの中心的学校と言えるだろう。
とはいえ僕はロンドンのファッションがそれほど好きな訳ではない。それはきっとパンクをそれほど理解できていないからだと思う。その中ではステラ・マックイーンの服は好み。英語ではslouchy と表現される「前かがみな緩さ」は建築にも使えそうな形容詞。
午前中事務所に平瀬さん、川尻さん、中野さんが来られてグラフィック英語版作成の打ち合わせ。Idea booksという販路http://www.ideabooks.nl/catalogsearch/result/?order=publicatiedatum&dir=desc&q=kajima+instituteがあることを知る。ここからamazon ukなどに広がるとさらにヨーロッパでの広がりが出ると思われる。
中川君と木島さんが熊本から帰京。木島さんから事務所の人全員に必携の品ということでレスキューキットが配られた。いつ何が起こるかわからない。
夕方青山ブックセンターで本買いだめ。その中の一冊がロンドンのファッションライターでヴィヴィアンウエストウッドと働いた経験もあるLinda Watsonの新刊(2015)Fashion Visionariesである全盛期からの伝説的ファッションデザイナー75人が収録されている。それを見ると彼らの活躍国はフランス30人で全体の40%、イギリス16人で21%、アメリカ10人で13%、イタリア9人で12%、日本6人で12%、ベルギー3人で4%、スペイン1人で1%ある。その後配偶者と森美を観察。http://ofda.jp/column/
しかしこの活躍国比率は1950年代以降に生まれたデザイナーに絞るとフランスは23%と激減、イギリスは29%と激増、アメリカ、11%微減、イタリア11%微減、日本4%激減、ベルギー17%激増という結果である。つまりフランス、日本が低調で、イギリス、ベルギーが好調ということである。それを裏付けるように出身学校を見ると、全体ではロンドンセントマーチンズ・スクール・オブ・アート4人で、文化服装学院3人、パーソンズ美術学校3人、アントワープ王立芸術アカデミー2人であるが50年代以降のデザイナーで見るとセント・マーチン4人、パーソンズ2人、アントワープ2人、文化服装1人という結果である。
エンリック論文の仮説としてユニークなところは篠原一男が一般に言われる前期後期の二つの性格(前期(A):秩序、抽象vs後期(B):秩序破壊、野生)が初期から同居しておりそれを調停する中でどちらかが強く出てきた結果として4つの様式を捉えたところにある。その仮説を裏付ける例として彼は白の家と地の家が同時に作られたにもかかわらず白の家は秩序、抽象の系(A)にあり地の家が無秩序、野生の系(B)にあることを例示する。そして(A)の系は第二の様式である亀裂の空間へ至りそこで終わる。一方(B)の系は第三の様式である野生、裸系の空間を通り第四の様式へとつながるのである。
このように二つの性格が同居する対象として建築家を捉えたのはチャールズ・ジェンクスがル・コルビュジエをアポロとデュオニソスと捉えてその初期のラショードフォンのデザインを説明したように前例のあることである。前例があるからといってエンリックの仮説の価値が減じられるわけではないが、人間の性格として二重であること特異なことではなくむしろ自然であると言えるだろう。
建築家を含めて表現者は表現の一貫性を貫きたく一つの性格(A)に固執するが、往往にしてそれに反する性格(B)が無意識の中に隠れており、時としてそれが噴出するのが常ではなかろうか?様々な表現者にこの考えを適用して分析したわけではないので推量の域を出ないがそれほど間違っているとは思わない。