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森口将之『パリ流環境社会への挑戦―モビリティ、ライフスタイル、まちづくり』鹿島出版会2009を斜め読み。世界は進んでいるなあと改めて感心。自動車派だったシラク市長の後を1995年に継いだチベリ市長は自転車道が58.7㎞しかなかったものを次の年に110㎞に伸ばし2001年までに約5倍の256㎞にした。その後のドラノエは2010年までに439キロとその倍近くまで伸ばしただからこそ2007年に始まったヴェリブ(貸自転車システム)は成功したのである。さらに言えばヴェリブが始まった時にすでに750か所に自転車ステーションがあり2008年には1000か所近くあるそうだ。インフラを整えないと自転車都市はできないということである。しかも料金体系が素晴らしい。年間の会費が29ユーロで使用量は30分まで無料なのだそうだ。家から駅まで、駅から職場までほぼ無料で行けるように考えられた料金体系とのこと。
○御茶ノ水駅改修案こちらから向こう側が透けているところが魅力
午前中事務所で図説。遠路はるばるありがたい。午後一でレモンの卒計展を見に明大へ。昨日は坂本先生等の審査が合ったようで各賞が決まっていた。じっくり見てコンセプトを知って評価するのと、僕のようにたかだか1時間見て「いいな」と思うものはだいぶ違うようである。僕は御茶ノ水駅の改修案と言うのが気に入った。
2時に神楽で院生とプロジェクトゼミ。今回は前回の完成された案を一度壊すことを指示し敷地と一体となる案を創るように言ったのだがなかなかそれができているものは少ない。とは言え3回のゼミで案は亀のようだが少しずつ進歩している。無駄がそがれやっと学生案からは一歩抜け出た感じである。来週は多田さんを迎えて構造のエスキスを行う。
○ちょっと篠原先生のような
○チョコバーみたいな
台湾はハードな旅程で普通なら4日くらいかかるところを2日で見て回ったような旅だった。そのせいで今日は疲れが抜け切れないのだが午前中は教室会議、午後はゼミ、続いて新宿アートの打ち合わせ。夜はスーツに着替えてアルゼンチン大使館での建国記念パーティーへ。200人くらいの人がごったがえしていた。アルゼンチン大使の長―いスピーチを受けて日本側のスピーチは外務副大臣くらいがするのかと思いきや三菱商事相談役の佐々木幹夫氏が行った。アルゼンチンと三菱商事の関係の深さがうかがえる。そう言えばサッカー部の先輩だった故諸橋晋六三菱商事会長がその昔は日本アルゼンチン友好協会の会長を務めていたのを思い出した。お二人のスピーチを聞いていると何と言っても外交の主役は政治、経済であって文化はちっとも出てこないのはちょっとさびしかった。大使とお話しして自分はブエノスアイレス・ビエンナーレ国際建築展の招待建築家ですと自己紹介したけれどブエノスアイレスビエンナーレの存在もあありご存じないようだった。というわけで出席者は財界、政界の方が多いと思われた。と言っても外観で分かる方は海江田さんくらいだったが。
アルゼンチン大使館文化参事官ファビエール、セルバンテスの館長アントニオ、ベネゼエラ大使館文化参事官モリースらとお話しをした。モリースに紹介されたべネゼエラ大使は日系で外見は完全な日本人だったのには少々驚いた。
6時に起きてホテルの周りを走る。8時半にロビー集合。篠原さん、萩原さん、柳澤さん、宮さんは別行動、武田さん、石黒さん、木島さん、吉松さん、山家さん、奥山さん、石田さん、酒向さんはタクシーに分乗して北へ、使われなくなった金精錬所の建物が丘の上遺跡の如く張り付いている。なかなか素晴らしい。金鉱跡地には遺稿を集約した博物館があり敷地内にはきれいな曲線を描く橋が架かっていた。午後は九分(20世紀初頭にできた山に張り付いたアメ横のような商店街)を見てから台北市内に戻りタバコ工場の再開発を見る。工場と倉庫が商業施設、展示場にコンヴァーションされている。リオで見たリナボバルディの工場コンヴァージョンのようである。その脇には伊東さんの設計した商業、ホテルのコンプレックスが建っていた。夕方の飛行機で羽田に戻る。
始発の中央線で羽田へ。7時の飛行機で台北へ。機中、林央子、高橋瑞木、児島やよい、高橋律子、藪前知子『わたしを変える‘’アートとファッション‘’』パルコ出版2012を読む。その中で林さんは「90年代以降のクリエィティブファッション」という文章を書き何度となく青木淳さんの文章を引用し、「既にそこにあるもの」という概念を多用する。最近僕の中で気になる言葉となりつつある。
台北に10時前に着き10時半頃竹中工務店の方など昨晩から台北に来ているグループと合流。全部で20人を超すグループがバンのタクシー4台に分乗して先ずは台湾大学の竣工したばかりの図書館、講義棟へ向かう。設計は伊東さん。その昔小布施の図書館で提案していたジョンソンワックスのようなキノコ柱による構造である。低コストでここまで作るのはさすが。次は南下して竹中がコンペで取った台湾客家文化センターを視察。30000㎡の大屋根で覆われた下にはめ込まれた二つのホール、図書館、会議室、展示室などのコンプレックスである。ランダムに飛ぶ構造体が圧巻である。そして更に南下して伊東さんの台中オペラハウスの工事現場を見学。あのリゾーム状の空間が現実に出来上がっているのに驚く。現場の藤江さんにそのリゾームの建設プロセスをムービーで見せていただく。鉄板の上に描かれた曲線に沿って組まれた鉄筋を立体的に溶接してその両側をメッシュでふたをしてコンクリートを流し込んで作られている。ホールなので部分的にリゾームは閉じられているものの部分的に現れる連続洞窟空間には今までにない空間を感じる。
4年のプレデイプロマでリサーチしたことをビジュアルに示せとリクエストしているのだがなかなかできない。できないのはやり方を教えていないからだと反省もする。低学年のうちにビジュアルストーリーテリングというようなプレゼンテーションの基礎を教えなければいけないのだと思う。でもそんな時間割が組めない。他のエンジニアリング系授業が多すぎる。うーん。
一方リサーチをして来いと言うと学生は古地図を調べ、歴史を調べ、概念的なお話を並べる。もちろん周辺状況の写真を撮ってくるのだがおまけみたいだ。でも僕はお話よりもそこにある目に見えるものの方が大事だと思っている。古さではないそこにあるものが重要だ。
ファッションの本にFashion Design Resourceと言う本がある(Robert Leach 桜井真砂美訳『ファッションデザイン・リソース インスピレーションを得るためのアイデアソースと実例集』ピーエスエヌ新社2013)。この本では最初にアレキサンダーマックイーンがこう書いている「ファッション・デザイン教育において、もっとも必要な教育は、徹底的なヴィジュアル・リサーチ能力だ。それが無ければデザインは存在しえない」。もちろんこのリサーチはデザインのリソースを見つけ出すリサーチであり、建築の敷地リサーチとは少々異なる。しかし建築のデザインもそのリソースが敷地にもあるとすれば(僕はそう思っているが)その観察は極めて大切なはずである。敷地のヴィジュアルリサーチ能力は建築の最も重要なことの一つである。と授業では散々言うのだが、伝わらない、、、、
John Pucher, Ralph Buehler 著 City Cycling MIT Press 2012を通読。自転車関係の洋書ってどれも結構簡単に読める。知らない単語殆ど無いのは不思議。この本は紹介分を見ると学術的な基礎データーを整理した本でこの手の研究をする人の必読書と書かれている。
二つほど目から鱗な考え方とデーターに出会う。
一つはEffective Speedという概念。これは自転車と車のスピードを比べると自転車の方が遅いけれど、車を買って維持するのと、自転車を買って維持するのにかかるお金を比較してその差を稼ぐのにかかる時間を加味して出したスピードである。もちろんこれは物価や給与が違うので都市ごとに平均値で産出される。
例えば東京だと自転車のEffective Speedは時速12.8キロ、車は11.7キロ。ニューヨークで自転車は9.2キロ、車は8.6キロ。ロンドンでは自転車7.2、車6.6.コペンハーゲン自転車13.3、車12.2となる。つまりEffective Speedという概念で考えれば車も自転車も同じような速度となるということだ。であれば他のメリットを考えれば自転車を使う方がいいことが多いということになる
二つ目はニューヨーク、ロンドン、パリ、東京の建築環境事情を比較したデーター。
先ずちょっと驚くのは移動における自転車利用率(2009)がニューヨーク0.6%、ロンドン2.2%、パリ2.5%、東京16.5%と圧倒的に東京が多いのである。これは駅まで自転車で行く人の数が多いのが原因らしい。
次に自転車レーンの整備状況。人口10万人当たりの自転車レーンは、ニューヨーク9キロ、ロンドン19キロ、パリ20キロ、東京1キロである。乗る人が多いのに専用レーンが無いから人とぶつかるわけである。
更に駐輪場の台数だが、人口10万人当たりニューヨーク153台、ロンドン1669台、パリ1493台、東京6398台である。
駅に自転車でやって来るから駅には駐輪場が整備されていると言うのが日本なのである。
日本は自転車後進国だと言われるのはこのレーン整備の側面で会って乗る人の割合はデンマーク並みのようである。しかし駅に自転車置いてまた電車に乗っておりてまた歩くと言うのは実に煩雑。都心部の車を減らし自転車レーンを整備し家から職場、学校まで自転車で安全に行けるようにしたいものである。
先日見た「拡張するファッション」展に展示されていたファッションを変えた(拡張した)と言われる伝説の雑誌『purple』の創始者エレン・フライスのHPイベントが本になった。その出版を記念して東京のvacantギャラリー http://www.vacant.vc/ で「Les Chroniques Purple」展が今日まで行われている。というのを娘から今朝聴き急いで見に行った。倉庫のような素敵なギャラリーが原宿明治通りの裏側にあるのに新鮮な驚き。一階は写真集や文具が売られコーヒーも飲める。2階が多目的スペースで展示、パフォーマンスなど多様に使われているようである。原宿行ったついでに覗いてみたら?
アルゼンチンパレルモ大学建築学部では1年に2回かなりしっかりした建築雑誌を作っている。次号はディテール特集ということで全体108頁の半分を30人のアーキテクツの寄稿で構成するのでその一人として6000字(語ではない)の原稿と写真2枚と図面2つを送って欲しいと長文のお手紙が届いた。30人の中にはアレハンドロ・ザエラ・ポロやアレハンドロ・アラベナやアンジェロ・ブッキなんかもいる。手紙は8ページもあるが学部長サイン入りで要を得た内容で分かりやすい。こういうところが向こうの大学はしっかりしているし、さっさとやる。しかも事務方とデザイナーがしっかりしている。雑誌は向こうで本物を見たがかっこいい。こういう雑誌制作が大学のプレステージ向上に貢献することを分かっている。うーん中国の東南大學でも痛感したが、広報が確立している。日本の大学はそこが弱い。予算があればできるというものでもない。強力な人脈も必要である。
やっとのことで英文原稿を仕上げ、スタッフと打ち合わせて送る写真と図面を英語に仕上げてもらって今日とにかくメール。ほっ。
林央子がキュレーとする「拡張するファッション」展を見に行った。数年前に彼女が著した同名の著書に登場したデザイナーの様々な作品が展示されている。しかし洋服と呼べるようなものは殆どない。唯一洋服らしい姿で展示されているのはワークショップで古着を繋ぎ合わせて作られた一般の人のイマジナリーな11の服と、これもワークショップで作られた服を職員の方自ら来ているその服くらいである。林のコンセプトは洋服と洋服じゃないものを繋ぐアーティストを紹介することである。もちろん彼らも(スーザン・チャンチオロ、コスミックワンダー、ブレス)服は作るのだろうがその服は展示されていない。
林は言う「すでにそこにあるものを繋ぎ合わせて服をつくることが気になっている」と。「すでにそこにあるもの」と言うコンセプトは建築におけるコンテクチュアリズムの発端となったエルネスト・ロジャースが使ったプレシテンツェアンビアンタリle preesistenze ambientali=環境に先在するものという概念と同じである。あるいは青木淳が言う「僕が興味あるのは僕たちの周りにすでに存在して生存している世界」という言葉にも近い。ファッションを拡張するのは新しい何かではなく既にあるものなら建築も少々それを見習ってもいい。それって別に古いものだったり貴重と思われているものの必要はない。逆につい最近のものだったり貴重と思われていないものの方がやりがいがある。要はその意味(価値)を変容できるかどうかである。
林央子『拡張するファッション』ブルースインターアクションズ2011を読んでいたら、たまさか著者がキュレートしている同名の展覧会が水戸芸術館で行われている(ということを佐河君から聞いた)これは見たいと思っているのだが5月18日まで。こういう時に限って土日にしっかり予定が入っているんだよな。やれやれ、、、、
この本は川久保玲、マルタン・マルジェラ以降のファッション界(95年以降と著者は言う)を描く本。同感だが95年パソコンが爆発的に普及して個人のクリエーションの幅が広がったのである。そしてファッションを拡張したのが写真家であった。ウォルフガング・ティルマンス、アンダース・エドストローム、マーク・ボスウィックたち。彼らは伝説の雑誌『purple』で今までにないファッション写真を掲載した。それらはモデルを使わない、ヘアメイクしない、スタジオを使わない、スタイリストを使わないというもの。ここにブレス ,コスミック・ワンダー、スーザン・チンチャオロらの新しい世代のアーティストともファッションデザイナーともつかぬ人間たちが絡んできたと言うことのようである。21世紀に入りファッションは巨大資本に吸収されたビッグメゾンに押されて停滞していると言われる。その中でファッションの殻を破った新たな世代のコンセプトは清々しい。建築も既存の殻を破るべく彼らから学ぶことは多い。
うーん何とか時間を作って水戸芸に行きたい、、、
中沢新一が伊東豊雄に国立競技場の改修案を作成するよう促し、それが近々発表されるとのこと。中沢さんいわく「今の日本は、国土強靱(きょうじん)化の名の下、大規模な建築物をどんどん造ろうとしている。おかげで人手不足、資材不足が生じ、これを東京に回すことで、東北の復興は決定的に遅れる。安倍晋三首相の言う東京五輪との両立は矛盾している」と指摘。その上で、「われわれは五輪に異を唱えているわけではない。改修して良いものを造ることができるならば、『もったいない』の文化を日本の建築思想として世界に発信できる。将来発生する莫大(ばくだい)な維持費用を考えれば、国民にはそれに反対する権利がある」と言っている。全く同感である。近隣住民としては国立競技場の建て替えはまったく承服できない。ラスキンが言うように我々は過去から受け継いだものを壊す権利を持ち合わせてはいないのである。それは公共の景色であり記憶なのである。
田口淑子編『All About Yohji Yamamoto from 1968山本耀司モードの記録』文化出版局2014の中で山本耀司が若者批判をしている。僕は若者批判が嫌いで「今の若者は、、、」という大人は先ず自分を見ろと苛立つことが多い。でも山本耀司が言うのならいいかなと思うわけである。彼は川久保玲の言葉をひいて「イージーな時代にはいい加減うんざりしている」と言う。僕もそう思う。何でもかんでも分かりやすいことに流れるこの時代って何なんだよと言いたくなる。僕の場合は若者批判ではない。大人批判である。政治も経済も社会もとにかく分かりやすく儲かりやすくステレオタイプな是に向かってどんどん動いていくこの無批判なイージーな時代にはもううんざりである。もっと物事を根源的に考えるような教育、創造、生産と言うようなものが必要なんだと思う。
今日は視覚性について整理。視覚論の古典であるジョージ・バークリーの『新視覚論』を再読。視覚は情報を受け入れる視感覚とそれを理解する空間感覚とに分かれ。後者は経験、教育によって育まれると言うバークリーの指摘は現在まで生きている。
よく視覚は飼い馴らされるとか、視覚は制度だというがつまりこの後者の部分が時代や場所によって変化することを言っているわけである。
消費と言うテーマでは消費社会以降という次の時代感がありそれに適合する建築を考えることが一つの問いになるのだが、では視覚の場合はどうなるのだろうか?
僕はこんな風に考えている。先ず視覚学者マーティン・ジェイの言う近世の三つの視覚に注目してみる。それらは透視図、バロック、17世紀オランダ的視覚の三つである。最初二つは有名だが3つ目はどのようなものかと言うと、断片的で、近視眼的に物質性を熟視し、輪郭があいまいに次の視点へ地すべりするというものである。
実はこの視点は現代写真家ティルマンスの指摘と完全に一致しているのである。ティルマンスは最近の写真集のインタビュで断片化、高解像度、多重性を現代的な視覚の動態として捉えている。その意味でこの3点は今まさにもっとも現代的な視覚のようだ。ではそれはいかに建築化されるのか?あるいはそういう目で建築の魅力を引きずりだすとどうなるのか?というあたりがこのテーマでの問いとなる。
昨日に引き続き消費の本を2冊読む日本デザイン機構『消費社会のリ・デザイン』大学教育出版2009と安田常雄編『社会を消費する人々―大衆消費社会の編成と変容』岩波書店2013前者は新しい消費社会を模索するものであり、一様に感性重視、場と時と人というような新たなアイテムが取り上げられている。一方後者は戦後日本がどのように消費社会を作り上げられてきたかを様々な局面から描いている。
自分の読んだ消費の本をまとめてみると産業化論的なものはなく、あるのは消費記号論か脱物質主義化論、あるいは脱工業社会論である。消費の問題は21世紀に入り一段落してその向かうべき方向性が見えてきた感がある。僕の中の結論は現在の消費動向も進むべき方向も一つにはまとまらない。まとまる必要もないというところ。やっと読んできたものの位置づけも分かっててきた。
連休中の消費論スタディ第三弾は間々田孝夫『第三の消費文化論―モダンでもポストモダンでもなく』ミネルヴァ書房2007である。この本の第三のと言っているのは上記マトリックスのローマ数字のⅠのスタンスのことである。モダンの消費論はⅢでボードリヤールに代表されるポストモダンの消費論はⅣである。
つまり著者は脱物質主義(物への欲望を基盤とした社会からの脱出)を標榜しつつ物の使用・機能価値よりも記号・文化、価値を認めるスタンスである。ボードリヤールは仕方なく物質主義を肯定していたようであり、無印はやや記号価値を否定にかかったが完全否定はできずそして物質主義を否定しようとしたが所詮大量生産に立脚しているのであり完全否定はできない。よって無印はこのマトリックスの丁度交点あたりにあるのかもしれない。
建築家が目指すはおそらくⅢとⅣの間であり縦軸の上のほうではなかろうか?物質主義を否定しつつ建築の価値を使用価値と記号価値の中央に位置づけるものである。
物質主義か脱物質主義化と問われれば脱物質主義を目指したいところだが、価値を使用におくか記号に置くかはどちらと決めつけられるものではない。やはり中庸である。中庸消費論が必要だと思うがどうだろうか?
午前中、途中までだった図面のチェック。昼は今日がバイト最終日の堀江君を連れて荒木町でランチ。人がまばらなガラス張りのカレー屋へ。インテリアはいい感じだがカレーが少なかった。2時にとある町役場の街づくり課の部長、課長、課長補佐の方と会う。最初にお会いしたのが3年くらい前でアグリツーリズムの街づくりを考えたいということだった。予算がつかずのびていたが、今年から正式に研究室で取り組むことになった。まず手始めに廃校になった小学校をアグリツーリズムの核にしようというあたりが1年目の目玉か(3年間何とはなしにそういう主張をしてきたので話が早い)。アグリツーリズムの一つの目玉なのだろうか採れたてのメロンを頂いた。未だ早いのでお尻が少し黄ばんで来たら食べてくださいとのこと。夕刻研究室の輪読、設計ゼミに顔を出す。今日は矩計を描けという課題をだした。どんな絵が出てくるか楽しみである。6時から製図。終ると10時。模型を作らない我々のチームは何を最終的に見せられるか、少々心配になってきた。
研究室コンペ。なかなかの案が一週間で集まった。でもまだ素人の案。