« February 2017 | メイン | April 2017 »
リマのような公共交通機関がバスしかなく、タクシーにタクシーメーターがついてなくて値段は毎回交渉という場所でどうやって移動するか途方にくれていたが、ルイスがuberを使えというのでアプリをダウンロードして使ってみた。なんとこれは便利なことか。こちらの場所はGPS上に表示されており、行きたい場所を入力して車のグレードを選ぶと近くにいるuberに登録している車が表示されその中の一台がこちらの要望を了承するとその車の運転手の名前、車種、ナンバーそして値段が表示される。それを確定すると数分でやってくる。安全だし値段は行く前に決まるし何時ころ着くかも分かるのである。これを使ってサンクリストバル(スペインの要塞があった丘)の上まで行ってみた。丁度夕日が太平洋に沈む時で絶景であった。
機中で外山 滋比古『知的な老い方』を読む。すでに90を過ぎた親父より年上のこの人の文章はなかなか過激。ものを捨て、役職を捨てろと説く。大事に買った本だけは持っておこうと思ったけれど70になったら考えが変わったという。誰ももらってくれないからこれは捨てるのが一番だという。僕も本棚だらけの家を構想しているけれどこんなもの70になったらクズかもしれない。外山氏を持ってさえ、本当に大事な本なんて数十冊しかないという。本を捨て勉強は図書館でしてホテルに住むことを奨励する。家はいらないか?
ものだけではなく仕事や役職もまわりから嫌がれるから捨てたほうがいいといい実際著者は定年2年前にやめたそうだ。仕事なんて自分で作ればいいと言う。なんともかっこいい。僕も見習おう。
だいぶ前に川尻さんから頂いていた、川尻さんが担当された長坂常さんの作品集『B面がA面にかわるとき増補版』鹿島出版会2016をじっくりと見て読んでみた。冒頭の長坂さんの言葉はとてもわかりやすかった。素人がやっつけで作ったようなライブ会場の何とも言えぬかっこよさと大学でならった建築のかっこよさの埋めれぬ溝が少し埋まってきた。そしてそれをB面、A面と表している気持ち。とても理解できる。加えてこの作品集に載っているB面作品のカッコよさもよく伝わる。そうそうたる顔ぶれの解説がある。特に千葉雅也さんの言葉はそれなりの説得力がある。それでも彼の言葉の訴求力をもってしても、たんなる写真ではあるがこの長坂さんの作品写真の訴求力には勝てない。僕の場合建築写真のカッコよさを信じないほうだし、ビジュアルのかっこよさに興味がわかない方なのだがB面建築の場合はどうも違うようである。というのもそもそも長坂B面作品は今までの建築というものとはちょっと毛色が異なるからなのだろう。なんだかレイチェルホワイトリードのモニュメントのようでもあり、川俣正の破壊的なインスタレーションのようでもある。でもちょっとそれらとは異なるのである。こんなジャンル不定の物体なので写真がこちらの想像力を増幅させるのだと思う。こんな経験はそうあるものでもない。
そう見慣れているようでそうでもないものってそう簡単にできないのである。
ペルー行く前に『建築の条件』第一部の校正を終えるべく今週読み込んでいてやっとなんとか第一部4章が終わりそうでホッとしていたが、ふと気がついた。第4章は倫理となっているが、僕の原文は倫理性なのである。これは飯尾さんが直したのだろうか?倫理性なんて言う言葉はないと言うことだろうか?そう思ってもう一度章タイトルを考えてみた。僕の原文は以下の通り。
1章、男女性
2章、視覚性
3章、主体性
4章、倫理性
5章、消費性
6章、階級制
7章、グローバリゼーション
8章、アート
9章、ソーシャル
しかしどうだろう○○性というふうに皆揃えるというのもあるのだろうか?
1章、男女性
2章、視覚性
3章、主体性
4章、倫理性
5章、消費性
6章、階級制
7章、国際性
8章、芸術性
9章、社会性
しかし、社会性のある建築というより、ソーシャル建築という方が
ピンとくる。カタカナでソーシャルデザインなんて言う方が一般的だからである。芸術もそうだ。現代美術を芸術ということは少ない。アートとカタカナでいう方が多い。『地域アート』なんていう本もあるくらいである。
国際性もしかり。そこで例えば英語併記にするというのもあるのだろうか?
1章、男女性ーgender
2章、視覚性ーvisuality
3章、主体性ーindependence
4章、倫理性ーethics
5章、消費性ーconsumption
6章、階級制ーclass
7章、国際性ーglobalization
8章、芸術性ーart
9章、社会性ーsociability
でも最初の案が日本語で読むなら自然だろうか?
この本(橘玲『言ってはいけない—残酷すぎる真実』新潮選書2016)が2017年新書大賞というのは驚きである。40万部売れるのはわかる。怖いもの見たさで多くの人が買いそうである。しかし本として価値あるかと言われればそうでもない。というのもそんなこと知っているよという話ばかりだからである。経済力のある家庭の子供は成績がいいとか、努力しても遺伝子が悪ければ成績が上がらないとか、美人の方が生涯年収が高いとか、、、、そんなことは統計そればそりゃそうだろう。なんかこういう事実を金出して確信したいとのだろうかとやや呆れる。そいうお前も買ったのだろうと言われるとそうなのだが、、、、しかし私は新書大賞なのだからもう少しパンチラインが効いているのだろうと期待していたのである。しかしそういうオチは何もない、、、、
2部の4年生と面接をした。今年は院に進む人は論文を書きなさいと指導している。本当は論文も設計も両方するのがいい。設計は半年かけようが2ヶ月だろうが成果物がそんなに変わるとは思えない。実際半年かけても製作しているのは1ヶ月である。なぜかわからないがそこまでやらないのが習慣化している。そして本人はそれが怠惰ではなく考えていると思い違いしている。設計は考えたことをひとまず形にしてみることまでで考えているというのである。
大変そうだけれど論文と設計両方やるのはちっとも大変ではない。しかし2部では調べると両方を履修することはできないと決められている。なんとも理不尽である。一体だれがこんなことを決めたのだろうか?そこで履修上は取れないけれど自主的にやりなさいと指導することにした。まったく世の中わからんことが多い。
寺田倉庫で5月16日からブラジル建築展が行われる。その実行委員会に年明けから加わっている。今日はその第三回目の会議を寺田倉庫でおこなった。展覧会タイトルとシンポジウムタイトルが決まる。展覧会タイトルはBrazilian Modena Architecture Model Exhibition:現代ブラジル建築模型展。展覧会タイトルはFrom Rio to Tokyo Urban Planning for the Olympics リオから東京へオリンピックの都市計画である。シンポジウムは5月17日予定でオープニグパーティーも合わせて行う。その会場を視察。やや音響が気になるが素敵な場所である。巨大なファンにびっくり。
きれいな花屋のあるところへの引越し計画を実現するために、まずは仮住まいの場所の検討である。今日は配偶者と仮住まい場所探しで1日歩き回る。我々が払えるだろう家賃と住みたい場所を勘案すると、仮住まい場所は最大50平米。加えて引越し計画の最終地点も85平米くらいしか作れない。しかるに今住んでいるところは118平米。ということはどういうことかというと今持っているものを捨てて、捨てて、捨てまくらないと住めないということなのである。さっぱりとしたこれからの行き方のためにこれは絶好のチャンスである。
配偶者にティッシュあると聞いたら千両箱ならあるけれどと言われた。
小林博人慶応教授と一緒に考えている「EU 日本建築会議:ブルーアーキテクチャ−−サスティナビリティを超えて」のテーマ設定を先週末に出さなければならなかったが、僕と彼の時間が全く合わずではスカイプやろうということになり何度かチャレンジしたものの相手が捕まらなず、結局メールのやり取りで文章とdiagramのスケッチがなんとかできて今日事務局にとりあえず送った。このdiagramの趣旨は社会と経済と環境のバランスがサスティナビリティへの道となるという横浜国立大学松雪教授のdiagramの上にさらに人間性が加わって幸福へ昇華するというものである。建築、都市、社会の持続性という概念の無機的な側面を払拭して感覚の領野へ建築、都市。社会を引きずり込もうというラディカルな提案である。
東大美学で建築を教えていたのが今から10年以上前。その頃の学生とその後3つの本の翻訳をした。当時の東大での授業は濃厚でその後その講義録が『建築の規則』となった。また授業の中に4つの見学があり、連窓の家、ガエハウス、ハウスSA、岩岡自邸の四つを見学して毎回5千字のレポートを書かせそれをその建物のオーナーに評価してもらうという今から考えるととても贅沢な内容だった。そしてそのレポートがさすが文学部という読ませるものだった。その中で岩岡さんが最優秀に選んだのが桑原くんのもので彼はその後大学院に残り我が家で書道を学び結婚して一児の父となり、4月から無事我が家の近くの大学で教職に就くことになった。そんなわけで久しぶりに我が家にやってきた。
当時の教え子は彼のように大学の先生となったり、新建築の表紙を飾る建築家となったり、ロンドンでアーティストになったり、様々な活躍をしているようで嬉しい限りである。
坂牛研のキックオフミーティングを例年より20日早く行った。今年の新しいこと。
・ ゼミをやめて、学習プログラムをいろいろ作り学生が好きなプログラムを取れるようにした。
・ ウィーン、中国、から研究生が来て、英語がネイティブのインドのラトゥールがいるので英語プログラムも創設した。
・ 研究室のしつらえ大きく変えた。きれいになった。
・ 輪読も建築輪読と建築外輪読の部屋を作り選べるようにした。
・ 1時間設計の月初めは2.5時間設計とした。
・ 造形課題もやることにした。
・ 学習プログラムの遅刻早退を欠席として3回欠席するとその後の参加をみ認めないこととした。
ウィーンからの留学生アナは東京とウィーンの比較都市論をやる予定だったが東京のリサーチに専念しろとウィーンの先生に言われたそうである。2時間ほど彼女のリサーチについて議論した。
彼女は日本の大学システムに感動していた。研究室があり自分の机があり、先生と毎週会って自分の進捗を議論できる場があることが信じられず、こんな環境があるならもっと早く日本くればよかったと言っていた。日本の研究室のシステムは良くも悪しくも日本独自でもしかするとこのことはもっと世界に宣伝するべきかもしれない。
未だ出たわけではないけれど、昨日は私の出版担当のリクシルの隈さんが僕の原稿に対する意見を滔々と語ってくれた。隈さんは美術出版で編集されていた方なので、美術と建築の違いを語ってくれた。
「美術は美術家の考えていることが比較的ストレートに出るものだが、建築は様々な知の融合、混合がやっと形となって現れるのであり、当たり前だが坂牛さんが書いているような建築の条件に全ての建築家は絡め取られているはずなのだろう。そうした社会知のリゾームは実は学生にとっては単に建築を学ぶということだけではなく、建築以外の知を得る、つまり読む、本の読み方を教える本でもあると思う。こういう本はきっとずっと何度も何度も読みたくなる本出し、読んで勉強して欲しい本なのです」
なんという賛辞だろう。きっとダウンサイドもありでもそのことはおっしゃらなかったのだろう。でも僕が意図していることを素直に全て認めてくれたことに驚くとともに感激した。
これもきっとここまでこの本を鍛えてくれた飯尾さんの本に対する情熱があったからなのだと思う。この本は2014年に構想されたのだがよく調べてみると3回書き直し最後の書き直しがこれから始まる。最初の原稿を読みながら飯尾さんは「単なる売れる本を作るのは簡単です。そうではなくて、残る本を作りましょう」と言っていた。なので厳しく、赤をいれてくれるのである。その赤には大きく2種類あって、一つはいわゆる赤である。もう一つはもっと大きな読む人のターゲットであり、あるいは文章のあり方、客観的であるべき部分と主観的に語る部分の比率とか。あるいは章立てをもう1章増やそうなど。実際この本は書き始めは7章だったのが、現在9章あるのである。
飯尾さんの本への倫理観は実は学兄小田部氏からも聞いたことがあるし、同輩の稲葉からも聞いたことがある、本は出せばいいというものではないのだろう。装丁は須山悠理さんがしてくれるとのこと。多少理屈っぽく見えるだろう本のイメージを少し開いたものにするデザインをお願いしてくれたとのこと。写真が使われるのか、タイポグラフィだけで行くのかわからないが楽しみである。発売は5月半ばである。
リクシル出版の隈さんが打ち合わせの時に最近出された香山先生の本を持ってきてくれた。この本を持ってきてくれたのには理由があって、単に隈さんが担当した本だからということではない。この香山さんの本はまさに建築家の総合的な知性が詰まった本なのだという。そして嬉しいことに私が書いている本もその意味で単なる知識の倉庫というようなものではなく建築家の総合知が見られるものなので、その意味で香山先生の本と私のこれから出す本は似たものだと感ずるというのである。それは身にあまる光栄というものだが確かに建築家の創造作業が総合知の結実したものだというのは良くも悪しくも、あるいは意識的無意識的を問わずその通りだと思う。
香山先生の本は長島さんが選んだ香山先生撮影のスライドを香山先生が解説するというスタイルをとっているのだがこの文章がいい。ニューヨークの写真の文章ではこの街を作ったのは誰か問い、風が街を作ったのだと答えている。風の作る街ニューヨークというのはなんとも直線道路をすり抜ける海風を思い起こす体が奮い立つような文章である。
本日2部4年生の坂牛研究室入研希望者のポートフォリを見せていただいた。これらを見て少々ショックを受けた。ポートフォリをは設計する人の名刺のようなものである。製図の作品の縮小コピーをクリアーファイルに入れてポートフォリをというのはやめたほうがいい。それは明らかに世の中の常識を知らないidiotのやることである。君達の常識を疑われる。さてそうは言えども、かろうじて体裁を少し繕ったポートフォリをのようなものがあったけれど中身は何の変哲もないただの作品コピーと何の変わりもない。こんなの誰も注目しないと思う。これに自分を全部込めるとしたらこんなもんじゃないだろう。もっと言いたいことがあるだろう。それをここに表現できていないということは残念ながらもう終わっているということである。