Dialogue 建てるということ


 奥山  例えば、第二次世界大戦で降伏した後の日本の建築家たちが始めた仕事の多くは、多分に今、多木さんが言われた内容を下敷きにしていたと思います。しかし、その歯車があるときから狂い始めた。方法それ自体が目的になったというか。

 多木  それと最初の出発点の思想が単純だったこともあり、そのうちに、日本の資本主義がそんな単純な思想を簡単に乗り越えることが起こったんだと思います。

 坂牛  この間、とある3人の詩人のシンポジウムを聞きましたが、その中に「9月11日以降に詩を書くことの意味は?」という質問がありました。そのときに、あるひとりは「あれは80年代からある問題が爆発したに過ぎない、しかしあれが爆発したとき、塹壕から見ている光を感じた」という表現をして、さすがにうまいなと思いました。そして詩人たちは多木さんのおっしゃる問題を内面化して創作の中に構築していけるのだと思います。一方建築は言語的なアナロジーで語られることはありえますが、そんなに綺麗には語れないだろうと感じるのです。多木さんのおっしゃることはよくわかりますが、今果たして建築はそこまで訴求力を持ちえるかという風にも思います。理想主義を持てと言われると元気も出てくる反面、「そう言われてもな…」というところもなくはない(笑)。先ずは建築というものが表現として持っている位置づけがどの辺にあるかを見定めてからでないと。

 奥山  そのとおりですね。理想主義の射程というか。

 多木  そうですね。それは、今の社会の中ではなかなかはかれないものですね。

 安田  建築は現実だから、他の世界と多少違うわけです。非常に具体的であるし、いろいろなことが日常的事象で決まってくるわけです。ですから、理想論をつくるとき、いろいろな現実を網羅でき、それらを許容できるような、広い意味での理想論でないと反映できない。それが何なのか。

 奥山  多木さんは、多分、社会とのつながりをその存在形式として断ち切れない建築だからこそ、それができるんじゃないかと言っているような気もするんです。

 安田  それはよくわかるんです。ネガティブでもポジティブな意味は含まず、例えば詩とか芸術、美術、いろいろなものを包括するわけです。それが社会全体を反映するようなものに近くなってしまうと、今度は具体論が出なくなってくるので、あいまいな言い方ですが、ターゲットとしてはその中間点になってくるだろうと。

 多木  それが先ほどの「生きられた家」と建築家がつくる家の間にある空白のギャップで見る夢かもしれないし、情報社会や戦争の世界から受ける圧力の中で見る夢かもしれない。しかし、詩人も私も普通の言語を使って表現するけれど、建築家の場合は建築を使って、そのかなわぬ夢を見ることは可能なのではないか。そうあってほしいと思います。それだけ建築は人々にとって重要なものなのだから。

(2002.11.27 東京工業大学百周年記念館にて)

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