Dialogue 建てるということ
 多木浩二 

 安田幸一 

 奥山信一 

 坂牛 卓 

(敬称略)

*1.
「ユリイカ2002年12月号」(青土社)より。
多木氏は、2001年8月号より同誌にて『空間の思考』を連載中であり、今回の対話の中には、そこでの言及を土台としている箇所も多い。
2001年8月号:伊東豊雄〈せんだいメディアテーク〉
2001年9月号:坂本一成〈House SA〉〈Hut T〉
2001年10月号:山本理顕〈埼玉県立大学〉
2001年11月号:妹島和世〈岐阜県営住宅ハイタウン北方南ブロック妹島棟〉
2002年11月号:伊東豊雄+セシル・バルモンド〈サーペンタイン・ギャラリー・パヴィリオン〉
2002年12月号:ダニエル・リベスキンド〈マイクロメガス〉
2003年1月号:ダニエル・リベスキンド〈ユダヤ博物館〉
(多木後記−『空間の思考』は、建築についての連載ではない。2003年2月号からしばらくは美術になる。)

*2.
『生きられた家』(田畑書店)1976年、多木浩二 著

 奥山  多木さんは、『ユリイカ』での連載の最新号でこんなことをおしゃっていますね。建築は「そのほとんどが本質的にはコンベンショナルな方法で建てられている」と*1 。それを日常性と置き換えると、そうした日常性を全部取っ払って、建築デザインという思考ゲームをしていくと、それはエンドレスになって何も生まれない。建築たりうるものは、どこか日常的なものを背負っているところに意味がある。そうしたことを前提として、現代都市にも、社会にも、あるいは多木さんの場合は歴史の少し深いところまで遡ったりしながら建築に迫っていくわけですが、そこで多木さんが興味をもってきた建築というのは、ある意味で日常性の何かが欠落している、何かが失われているもののような気がします。そしてそれらを通して、建築の本質的なものを見いだそうとしてきたように思います。具体的に言えば、伊東豊雄さんの「せんだいメディアテーク」は過激な建築で、世界中の人たちが計画段階から注目してきました。しかしある見方をすると、言葉は悪いですが、あんな「できそこない」な建築はないと敬意を込めて思うわけです。多木さんがその「できそこない」の何に注目しているのか、そのあたりから少しお話しいただけますでしょうか。

 多木  ひとつは、なぜあれが「できそこない」なのかというと、最初から完結させることがまずないことです。そして、ものすごくたくさん入り乱れた要素がある中のあるところだけを切り取ったものに過ぎない、ということを自分で自覚していただろうとは思います。しかし、その次の段階でみんな引っかかったのは柱の形で、それが評価されたりしているけれど、あれは何とかして空中に浮かせられないだろうか、つまり重力感が切り離されたような状態にできないだろうかと考えてつくったと思います。しかし計画的には、あの建築はあれでいいのかなと疑問に思うところがたくさんあるわけです。
 例えば僕が一番引っかかったのが図書館で、「あんな図書館ってあるものか」という感じを受けたところから言うと「できそこない」だけど、考え方のおもしろさがあるわけです。それを最初に感じたのは大分前に八代につくった消防署で、あの消防署は都市の部分でしかない形をひとつ実現させるということだったと思います。
 そのように考えると、彼は、ものすごくたくさんの要素が複雑に入りまじったものの中から、建築を建て上げるとはどういうことなのかを考えているということです。だから、本当は計画すること、つまりどのくらいシャープな仕上げをして人に美的な感動を引き起こすかということよりも、何かもっと広い都市なら都市という全体の中から建築が建ち上がること、つまり「建てること」、コンストラクトと言ってもいいようなことが、実は彼の中で非常に重要な要素だったのではないかという気がするわけです。
 では、「建てる」とはどういう意味があるか。僕が書いた『生きられた家』*2 をみんな建築論だと思っていらっしゃるようですが、建築論ではないんです。『生きられた家』はハイデッガーから始めていて、そこに「建てる」ということがあり、ハイデッガーはその「建てること、考えること、住むこと」が一緒になった状態を言うわけです。彼らはそういう意味の「建てる」ところまで意識化しているかどうかはわからないけれど、どうも問題の所在はそういうところではないか。でも、普通はそうではなく、彼は形の上で評価されていると思いますが、ちょっと違うのではないか、人間が使う建築としては非常にまずい建築だと思います。

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