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『テクトニック・カルチャー 19-20世紀建築の構法の詩学』(TOTO出版)2002年1月、ケネス・フランプトン 著/松畑強+山本想太郎 訳
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坂牛 ケネス・フランプトンの新著『テクトニック・カルチャー』*3 をゼミで輪読しているのですが、これはハイデッガーの「生きること、建てること、考えること」が大きな意味で下敷きになっています。この本で、フランプトンはティポス、トポス、テクトニックを軸にいろいろな建築をざっと評価しているけれど、大雑把に言うと新しい構造をつくった人を評価しているわけです。ペレから始まり、ライト、ミース、カーン、ウッソンなどが入っています。あの文章を表面的に読んでいると、確かに新しい構造ということなのですが、ウッソンあたりを読むとハイデッガーを下敷きにしていることが強く感じられるんですね。要は場所があって、その場所に何か箱が飛んできてポンと置かれるのではなく、そこに何かが構築され生活が生まれるというような、多木さんがおっしゃった「建てること」とかコンストラクトしていくところを評価しているように読めるのです。
実は、つい最近メディアテークを見に行きました。僕も、いま多木さんがおっしゃった「建てること」に近いものを感じました。それはあの建物では人が自然に通過していくような感じがあるのです。外での姿が中に入ってもそのままという風に見えます。つまり建築があの場というものに柔らかにかぶさってきて、あの場の生活をやわらかく包んでいるという印象です。それは先ほどのフランプトンの構築的ということと、すごくつながっていると思います。そこが面白いのですが、それを果たして「できそこない」といえるか。強いて言えば、計画的な基準でみればということですか?
奥山 計画的というより、今僕たちの身の回りに漂っている制度が何となくあるじゃないですか。それは時間とともに移り変わりますが、そこに建築家の構想力が投入されると軋轢を生む。そこにある意味で、建築の根源的なものを感じるわけです。そういう軋轢がなかった時代はない。本当の日常とは、そうした軋轢が起きている状況を言うのだろうと思います。そう考えると「できそこない」の建築は常にあって、そこに僕たちの心やからだを解放してくれるところを見いだすわけです。自分たちの精神を解放したいし、自由になりたい。しかし、そうした自由はその裏側にある不自由 によって支えられている。その不自由な部分を明確に位置づけないと、本当の自由はなかなか獲得できないのではないだろうか。
多木 建築家の場合、空間をつくりたいのか、人間の解放を行いたいのかわからないけれど何かある衝動があって、必ず物質的世界にぶつかると思います。その物質的世界とのぶつかりの中に物質化の抵抗があって、そこに軋みあって生まれてくるのが建築だろう。これが建築の場合「物質」だとはっきりわかるけれど、僕らみたいに言語だけで生きている人間は発見が結構困難ですから、何かわからないものとのぶつかりあいがいつでもあるわけです。
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