Dialogue 建てるということ

*4.
ギャラリー・間で開催された、坂本一成展『住宅――日常の詩学』にあわせて開催された空間術講座13「建築を思考するディメンション――坂本一成との対話」。2001年12月から2002年1月にかけて全6回にわたって開催された。2002年9月、同名にてTOTO出版より単行本化。岩岡竜夫+奥山信一+曽我部昌史監修。

*5.
岩波現代文庫『生きられた家 経験と象徴』(岩波書店)2001年2月、多木浩二 著/大室幹雄 解説
「概念の家」と「生きられた家」の空隙に

 奥山  昨年の秋から冬にかけてギャラリー間で6回行った「空間術講座」*4 が本になりましたが、そこで伊東豊雄さんがこういう議論を展開しています。僕たちは触覚的に日常を生きているわけですから、触覚的な空間の存在価値みたいなものは否定することはできないし、それを、つまり「生きられた家」を目指すことには何の問題もないであろう。ただ、建築家が自分固有の方法を追求していった先に発見した「概念の家」を、そこにもう1回重ねるのは大いなる矛盾ではないかと。「概念の家」と「生きられた家」は必ずどこかに一致をみると考えれば、それはクライマックスを迎えるだけであって、そこから先が読めなくなる。僕はそういう意見もわかる一方で、しかし、一致するはずがないと前提するなら、その差異の中に夢を見るというか、ある発見をしていくことには可能性があるだろうと考えるわけです。

 多木  そのずれのところです。それはひょっとしたら空白の状態かもしれませんが、そこに建築家の可能性が潜んでいるのではないか。
 実は『生きられた家』を出したときに猛烈な批判がありましたが、建築論として読まれるのは僕にとっては非常に不本意なんです。というのは、60年代から70年代にかけては、現象学をかなり身につけようとしていた時代で、僕らの仲間はそういうものに基づきながら、専門の領域はそれぞれ違うけれど似たような仕事をしていたわけです。それは岩波の文庫版*5 の最後に、大室幹雄さんが解説を非常にうまくまとめてくれていますが、その時代は本当にそのようにしてやっていた。そういう現象学的な事例として、建築がどのくらい重要なものであるかに基づき、あれを人類学から、哲学から、あるいは社会学、心理学に至るまでの中で考えてみようとしたものなので、それは絶対に建築家の指針にはならないはずです。ただ、そういうものが存在していることは、建築家にとっても考えるに値することだろう。そして建築家がつくろうとするものと、「生きられた家」と僕が呼んだものとの間には空隙があるはずです。この空隙が、建築家の可能性が発生しえるところです。

 安田  その空隙は埋めなければならないのでしょうか。

 多木  埋まらないでしょうね。埋めたつもりでやったら、次の空隙が生まれている。ただ、「埋めなければならない」という言い方はあまりしたくなくて、むしろそのギャップを短くするということです。

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