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電子メディア社会と建築
坂牛 多木さんは市民センター*6 で「建築というのは物質に対峙して空間をつくっていくけれど、実はそれは建築家に限らず人間が本来的に持っているある種の能力なんだ」ということを何度もおっしゃっていました。ですから、建てるということが一般的な意味を引き受け得るのは、人間が本来的に持っている衝動というか本能と、建築家がつくることの中に、ある通底するものがあるからだと考えておられるのですか。
多木 あると思います。
坂牛 人間が言葉を使って話すように、人は物質を使って空間をつくれるという考え方が根底にありますね。確かに大昔はそうだったと思いますが、現代社会を振り返ってみると、今日も来るときに駅や大学を見ながら、本当に一般の人はそういう能力を持ちえる状態にあるのかということにある種の疑問を感じるわけです。
多木 あのセミナーを頼まれてやることにした理由は、それだけの能動性を一般の人に持ってほしいからです。あれは一般の人相手のものですから、建築家が聞きに来るものではないんです(笑)。おっしゃるように、みんな能力を失ってしまったわけで、家の中で何かちょっとしたことが起こっても自分の手で直せないわけです。
奥山 僕もそう思います。そう思う反面、今みんな携帯電話を持っているでしょう。電車に乗ると手に携帯電話を持っている人の多さに驚くわけです。おそらく彼らにとって携帯電話は完全に身体の一部になっているのだと思います。パソコンもそうで、あれがないと仕事にならない。うちの学生からパソコンを取り上げたら、一切プロジェクトは停止する。一歩も進行しない。僕はまだ手で書けますけれど(笑)。
ただ、僕はこのような現代的状況を批判的に見たくないんです。道具がなかったら、文明社会は進歩しないわけです。今彼らから携帯電話やパソコンを取り上げると、生活が成り立たないのと同じように、僕たちだって常に何らかの道具がないと成り立たない世界の中にいるのです。衣服もそうで、衣服は身体の一部かどうかという話も身体論で常に話題になります。本当の生身の体は何もない自由な体だけど、それでは生きていけない。今の文明社会、携帯電話もパソコンも含めて、どこか旧来の身体能力を失ってきたことは確かだけど、同時にそれをどうやったら肯定できるかを考えたいわけです。多木さんはその辺をどう考えますか。
多木 まず電子メディア社会であることに対して抵抗したり、それを否定したりすること自体は全く意味がない。しかし、人間が声を出したり、手を動かしたりする能力は、あまり失いたくない。それは人間がものをつくり始めてから、今までずっと続いてきた一種の伝統的なものがあると思います。では現在、そのつくり続けてきた中でどうすればいいか。これは建築よりも、家具も含めたデザインの場合に、かつて持っていたそういうものをつくることの手仕事的な部分がなくなっていくことに直面していると思います。そのあたりは電子社会を認めると同時に、その中で可能な人類が人類であるという、種としての自立性はどこにあるのかを考える問題になるわけです。
不幸なことに、人類は進歩し始めてしまったから、自己実現が十分できないまま絶えず変わっていくわけです。それと同時に、そのときそのときでそれを組み込んだ自分の世界を広げていくにもかかわらず、ものすごい昔からずっと続いているものがあるはずです。それが今どんな形かというと、建築の場合は中で動くということでの身体的なものはそうだろうけれど、つくるということから言えば、デザインの場合はもっと端的に問題を突きつけられていると思います。
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