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坂牛 先ほどの電子メディアの話に戻しますと、大澤真幸が電子メディア論のあとがきに「電子メディア論をやるとすれば、その否定的な可能性を照らし出すことだ」と述べ、身体や他者性の可能性に言及しています。それを見てちょっとがっかりしたんです。そうではなく、身体と電子メディアの狭間で揺れ動いている自分みたいなものがあるわけで、そこをどう捉えていくかということでないと結局もとに戻ってしまう。そう思いつつも、携帯やコンピューターが僕らの思考パラダイムを決定的に変えているかとか、それらが社会を動かすモーメントになっているかと考えてみると、あまり積極的にそうも思えないところがあったりするわけです。それはテレビが出たときに比べれば、はるかに弱いような気がするんです。
多木 ただ、電子メディアからは、目に見えない世界の広がりがこんなにあるのかという驚きは一番感じます。つまり、そこにある情報は価値のある情報ばかりではないんです。確かに価値のある情報はあって、図書館の検索にしてもそうですし、アメリカのある大学は1冊の本丸々出していますからダウンロードすればいい。しかし、そういう価値のある情報だけではなく、もっと非常に暗い欲望の世界までものすごい重層化してでき上がっている。その厚さと広がりと複雑な関係の仕方を見ていると、今までみんなそれぞれの胸の中にしまっていたものなり、時には何かものを書くときにそういうものが外にあらわれたかもしれないけれど、それが何か目に見えないものとしてわれわれの社会の下に横たわっているのは、むしろテレビの普及よりショックとしては強いですね。ただ、自分とコンピュータとの関係から言うと、ほとんどタイプライターとしてしか使っていませんから(笑)、それでは世界観が変わらないわけです。
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