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他者性とは
坂牛 そうしたギャップを埋める手法として建築家固有の方法を希釈することがひとつの方法として浮上します。最近の多木さんの論考にあがったサーペンタイン・ギャラリーの場合、バルモンドのアルゴリズムみたいなものがあり、また以前お書きになった山本理顕さんの場合システムがあります。いずれも建築をつくる方法であると同時に、建築家固有の概念を薄める方法でもあるわけです。多木さんの言葉を借りれば、ある種の主体性の排除みたいなことも一遍に起こす可能性があるわけです。それがあるさわやかさを生んだり、開放感を生んだりすることにつながっていくんだなと感じています。そういう意味では、サーペンタインのアルゴリズムと山本さんのシステムには、ある同じような考え方の流れが感じられるわけです。
奥山 そうですね。だから、ひとりでつくるか数人かという人数の問題ではなく、そこに他者性が入り込む余地をどうつくり出すか。それはひとりの構成力でも構わないけれど、ひとりのまなざしだけが徹底的に支配した空間の場合、概念としての建築が閉塞せざるをえないだろうし、そこに他者性をどう入れられるかがポイントでしょう。
坂牛 そうですね。しかし先ほどのシステムやらアルゴリズムと言ったルールをつくれば他者が入るかというのは、非常に微妙な問題があると思います。ヴォーリンガーの「抽象と感情移入」の話で、抽象というのは何の説明に使われているかというと装飾の説明です。装飾は抽象衝動によってできてきたものだから、アラベスクとかはあるアルゴリズムなわけです。あるアルゴリズムの果てにアラベスクができる。その意味で僕はサーペンタインを見たとき、ペルシャ絨毯のようだなという気がしないでもなかった。つまりアルゴリズムでものをつくるときに、主体性が消えていくような状況がある一方で、ちょっとこてこてしたものになっていく可能性もあるわけです。それはそのプログラムの問題と、アルゴリズムのつくり方の問題があるわけで、そのアルゴリズム自体にある種の他者性、言ってみればドーキンスが言うようなある突然変異とか自然淘汰とかというところまで組み込めるのであれば、それはすごいことだと思います。
奥山 ひとつのパビリオンということでギリギリ成立する建築ですね。
多木 機能はほとんどない。
坂牛 逆に埼玉のようにグリッドというシステムによって全体が構築されたものも、もちろんある種の主体性の排除みたいなものは感じますが、それもまた微妙だなというところがなくもない。
多木 微妙でして、あれは細部が何となくどこか未完成な感じがあって魅力があるけれど、函館になると魅力が消えてしまうんです。それは全部ガラスで包んでしまうので、いくら中でいろいろなことを試みてもひとつの箱として存在してしまう。ですから、未完成でどこに行くだろうかという風景にはならない。
安田 金太郎飴的な長いもの、それが埼玉の魅力だとお書きになっていらっしゃいます。「細長いもの」の可能性として「向こうに何があるんだろう」というわくわくさせる期待感のようなもの、もしかしたら一見して全体が金太郎飴的構成に見えますが、向うのほうでは何か違った新しいアクテリビテイが挿入されているのではないかとか、そういう空間の想像性が出てきますね。
多木 出てきますね。埼玉の場合は、そういうものがあったので一番魅力を感じたわけです。
安田 最初に中庭に足を踏み込んだとき、日本ではないような感じがして、構造体のプロポーションからも想起させるのでしょうが、まるでフランスの片田舎に立っているような錯覚がありました。日本という地面から遊離して、少し不思議な感覚が生じました。
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