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多木 だけど、例えば建築家は、建築についてのメタ原理なしに建築をつくれないでしょ。
奥山 確かにいわゆる建築家はつくれませんが、現実的な設計作業の中では、メタ原理がなくても、論理的には建築をつくることは可能だと思います。
坂牛 メタ原理をどこまで定義するかによりますね。非常に大きな意味でのモダニズムとか、そういうコンセプチュアルな目標みたいなものをメタ原理とするなら、それなしでもつくれると思いますが、計画上の基礎みたいなこと、例えば便所の幅は90センチとかも含めてメタ原理と言うなら、なかなかつくれないかもしれない。
奥山 それはメタ原理ではなく、そのときの単なるルールでしかない。先ほど坂牛さんが言われたことは、ひとつのプロジェクトに対するいろいろな解法が全部等価に並んで、そこに価値が投影されない世界でしょ。そこには当然理屈も入り込む余地がない。それはメタ原理のない世界です。とにかく何らかの根拠でセレクトできればいいわけで、これが感覚的にいいとみんなで決めてしまえば、それで計画案を固定することができてしまいます。この自己が薄まってくる瞬間が。まさしくひとつの快楽でもあるわけです。
坂牛 僕がメタ原理をふたつに分けて、モダニズムなどの非常に大きな原理の下にもうひとつ小さい原理があるとわざわざ言ったのはこんな理由からです。今事務所で若い人と設計をしています。そこではもちろんモダニズムのような第一原理みたいなものはありません。さらにその下の原理も希薄なんです。例えば、トイレの幅は90センチメートルだとか50平方メートルの家の中に廊下が10平方メートルもあったらおかしいだろうとか、それを設計の基本的作法とか計画の基礎と呼んでもいいかもしれませんが、そういう原理も飛んでいるのか飛ばしているのか、希薄なんです。ですから多木さんが、妹島さんを評して「どうしてここまでシンプルになれるんだろう」という書き方をされていましたが、妹島さんがそういう小さいメタ原理をあえて飛ばしているとも読めるのです。
奥山 ただ、それは飛ばしているのではなく、廊下やトイレの幅とか面積は、現在の社会の中で成立しているある種の制度であり、歴史的に見ればトイレの大きさにしても、廊下の面積にしても現在の常識からかけ離れたものがいくらでもあるわけです。そうした広範な事例の中からセレクトしているのか、その歴史の参照があるのか。具体的に何かを参照していると明言しなくても、それをかいま見せる、考えることが、見る人にそこまで及ぶかどうかという最終形になっているときに、そのメタ原理は成立すると思います。それがない場合は単なる形式のゲームになっていく。
多木さんが妹島さんの建築を見て、あそこまでシンプルにいろいろなものをそぎ落として、なおかつそこに魅力があるとしたなら、彼女が意識しているかどうかわからないけれど、立ち上がった建築の最終形に過去の膨大な歴史の断片をかいま見ることができるということですよね。そこに到達している場合はメタ原理があるわけです。
多木 彼女の場合にはそれがあって、あえてあそこまでやったんだと僕は思います。低家賃の賃貸の公営住宅という条件があったからかもしれないけれど、彼女以外の建築家なら何か大きさを変えるでしょ(笑)。あれを均質にやってしまうのはちょっとすごい。このすごさはどこから来るのだろう。これは彼女の人間に対する考え方も反映していると思いますし、同時に1回全部切り落としたほうがいいという気持ちが働いたんだと思います。金沢のものはある段階の模型までしか知らないけれど、大分複雑になっていますね。だから、必ずしもノイズのない建築をつくろうとばかり思考しているのではなく、1回そこまでやってみるということだったんだろうと思います。
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