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奥山 今のお話の中に、先ほどから議論している自己と他者の問題を同時にかいま見ることができるわけです。生身の体だけが自己であるということは絶対にありえないが、どこまでが自己なのかをどうしたら認識できるか。携帯でもパソコンでもいいけれど、そうした道具が生み出す能力のどこまでが自己で、どこまでが他者なのかを常に測定できているなら、電子メディア社会をうまくコントロールできると思いますが、現在の人類はそうした能力を失ってきているのかもしれない。
多木 そうですね。その境界がはっきり見えなくなっている。また、自己と他者の境界を突破してしまって、自己が得体の知れないものになっていくことへの不思議な快感もあるわけですから、そっちに向かっているのかもしれない。
奥山 今のメディア社会は、その不思議な快感を楽しみ過ぎていて、未来を見ていない可能性があると思います。そうした快感は、ひとつの楽しみであり誘惑でしょ。だけど、その快感と同時に、自己の能力でコントロールできる範囲、つまり境界を認識する力を見失ったように見えます。そうした認識力は建築を構想する力とどこか直結するような気がするわけです。それは、先ほど都市から何かを部分として切り取るといったところに、建築の可能性があるという話もありましたが、建築の場合、換言してしまえば、無限の広がりから空間を切り取る作業でしかないということもできると思います。そうだとしたらどういう状況の中からどういう方法で切り取るかは、普段、僕たちがどこまでを自己の身体と考えるかという認識の仕方と非常に近い感じがします。その感受性が、建築家のイマジネーションを何らかの水準でコントロールするだろうと思うわけです。
安田 自己と他者の関係の話ですが、その他者という存在は自己の否定ではなく、自己と非常に近いものであるべきです。このメディア社会とコンピュータライズされた社会では、あらゆる手段、手法が可能です。その中で自己の選択眼が今後ますます重要になってくると思います。少し具体的な話をしますと、ある美術館で基本的には絵のダメージを小さくするため光ファイバー照明を採用しましたが、光ファイバー照明はまたいろいろな色温度に変換が可能でした。今まで蛍光灯なら4,200ケルビンとか、白熱灯なら3,000ケルビンという決まった数値から色温度は選択するというのが常識でしたが、光ファイバーのフィルターとさまざまな制御により、中間の細かい数値まで表現することが可能になる。すると、今度は逆に自分に跳ね返ってきて、感覚論になってくる。つまり、そこまで規定した数値を与えること、それがいい色なのか、他者を使っているけれど今度はそれがいいという判断ができる人になれるかどうかが自分に戻ってくる。テクノロジーが人間性に戻ってくる瞬間があって、人間の目が大事になってくる。今まで3,000ケルビンと4,200ケルビンの違いだったら把握できたわけですが、今度は3,150と3,000ケルビンの違いを見極められるかということになってくる。先ほどの話に戻りますが、例えば3,150ケルビンのほうがいいのだというときの確信的なものは、エステティックな判断かもしれない。ただ、それをどこまで自分で確信できるかで、今度は他者から自分が責められる側になる。だから、決して自己と他者がばっさりと分かれるわけではなく、多分融合しながらキャッチボール的に行われるのでは……。
多木 相互関係にある。
安田 ええ。多分それがコンピュータ化した現代の最もシビアな面でもある。自己をきちっと把握していなければならない。人や機械に投げたらそれで終わりではなく、今度は自分に戻ってくる。要するに、今は何でも可能な時代ですから、どれを選択するかが主体的になってくるわけで、この感覚は今までなかったことです。選択の自由はありましたが、今までできなかった。カラーグラフィックスでも何万色から1色を選ぶわけです。それも最後は人間の感覚になってくるわけで、他者が選んでくれるわけではない。何か数式や関数があって答えが出てくるわけではない。道具としての手の部分は非常に発達していますが、人間の感覚がそこまで発達しているわけでもない。他者に自己が啓発されることになるのでしょう。
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