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川添登は1963年に「カタチ論」を『デザイン』2月後に寄稿する。そこには建築家・菊竹清訓が1958年から書き始めた『建築代謝論 か・かた・かたち』も簡単に紹介される。菊竹のそれは〈か〉:本質的段階であり、思考や原理、構想。〈かた〉:実体論的段階であり、理解や法則性、技術。〈かたち〉:現象的段階であり、感覚や形態。なのだが、川添はかたちの「ち」に生命の根源を、「かた」にその具現を見ている。よって「かたち」とはどうもアリストテレスいうところの「形相」のようなものなのである。つまり「かたち」一語に「か」も「かた」も「かたち」も一度に見出している。ところででは建築家が形を作るときにこの原理である菊竹流なら「か」川添流なら「ち」とは一体具体的に何になるのだろうか?それは場所にあるのか?材料に内在するのか?建築家の内面に宿るのか?それはどうもはっきりしないのだが、二人の言いっぷりを聞いているとどうもそれは建築の用途や要求、目的あるいはそれを達成する効率とか合理というところにあるのではなさそうである。そうではなく、建築それ自体あるいはそれが立つ場所に宿るもののように聞こえるのだが。つまり建築のカタチは建築の自律的問題として取り扱っているように聞こえるのだが、、、菊竹の建築が狂気だと言われる所以はここに由来しているのではなかろうか?
今日の日曜日はここ1ヶ月くらいの追い込まれ感から解放されて配偶者と近所の散策をした。というのもやっと『建築の条件』の原稿の最後の校正を終えたからである。それにしても小さな編集社を率いる飯尾さんたちの編集のやり方には驚きを隠せない。その内容を事細かに書くと膨大なものになるので割愛するが兎にも角にも敬服に価する。そんな経験のあとなので『みずず書房旧社屋』幻戯社2016の加藤敬事もと社長の文章を読みながら共感した。その文章にはアメリカの出版人、ジョージ・エプスタイの著書『出版、わが転職』からの引用がある。「出版は本来、cottage industryである・・・出版は自主性を侵すものには用心を怠らず、著者の要求と読者の多様な関心に敏感という、共通の心意気をもつ人々の小さな集団が一番です」と。
そんな本を読んだら一昨日のインタビューを思い出した。インタビュアーは私が巨大建築設計事務所の大きな仕事からアトリエ事務所の小さな仕事にに携わるものが著しく変化した事に興味を持っていた。そして今巨大事務所で学んだ事が何かを聞いてきた。僕は素直に、技術と倫理と答えた。確かにこの二つはなかなかアトリエ事務所では学びづらいものだと思っている。でもものづくりのフィロソフィーは残念ながら巨大事務所では学べない。そうそう建築もcottage industryの側面を持っているのである。もちろん世界中の建物がcottage で作られるとは思えないが、21世紀その可能性と役割は増加するはずである。7月に行うEU Japan建築会議でもテーマの一つはそこにあるだろう。
午前中オフィスでインタビューを受けるというので待っていたが待てど暮らせど来ない。インタビュアーが道見迷っている。やっと1時間遅れで到着したのだが、後が詰まっているので早口の質問に早口で答える羽目になり、言いたいことは言っているのだが英語としてめちゃくちゃな感じである。聞きたくない。午後築理会の講演を聞きその後懇親会。夕方打ち合わせがあるのでお茶を飲んでいたら体調が良くなってきた。今週はよく飲んだ。体がフルオブアルコールになっていたのでちょうど良い。オフィスで打ち合わせ。いよいよ実施に入り細かな寸法をいじり始めると途端に様々な数字が矛盾し始める。いつものことだが今回は平面断面に斜めが多いので様々な数字が連動して動くので難しい。
菅付雅信『新しい写真、それは世界を新しく見つめなそう方法だ』玄光社2016は月刊『コマーシャルフォト』の連載「流行写真通信」の5年分なので約60の写真家や写真事情が書かれている。それを見ていると日本の若い写真家は日常的な写真を撮る人が多いことに気づく。そして実際2014年の木村伊兵衛賞の審査時に「アサヒカメラ」前編集長の勝又ひろしがこう言う「最近の賞の候補者は、よくも悪しくも自分の半径5メートル以内で勝負している写真が多い」日常性に拘泥するのは、アートも、建築もどこでも起こっている。そしてこれは日本的現象かというとそうでもないようである。
でもずっと日常性の中にいるのは創造に結びつかないと思っている。坂本先生と対談した時におっしゃっていた。「習慣を完全に外すことはわれわれがわれわれであることを否定することで、それはしたくないという思いがあります。習慣はわれわれがわれわれであることを明らかにするけれど、同時に習慣には嫌な部分もあるので、その部分への『違反』をどうにかしてやりたい」日常をどこかですり抜けて別の世界に行かないといけない。
日常は出発点であっても、回帰点ではない。
川向先生から素敵な著書をいただいた。『近現代建築史論』中央公論美術出版2017 裏表紙に隈さんの推薦の言葉がある。曰く20世紀はヴォリューム=体積の時代であり体積は人を幸せにしなかった、今はサーフェイス=被覆の時代である。そしてそのルーツはゼンパーにあった。それを突き止めたこの書の意義を述べている。実は現在翻訳しているウィグリーの白い壁も同様の主張をしている。曰くモダニズムの白い壁は全てを放棄して歴史を断絶した白ではない。白は白という色の衣服なのであると。そしてモダニズムの建築家はみな実際ファッションデザイナーでもあったのだと。もちろんそうした思考のルーツはウィグリーの場合もゼンパーにある。ウィグリー翻訳の参考書としてありがたい。川向先生ありがとうございます。
現代ブラジル建築模型展のオープニングを兼ねて国際シンポジウムリオから東京へ—建築がつなぐオリンピックと都市計画を本日天王洲の寺田倉庫で行った。数ヶ月かけて三宅理一さんのもとで企画を練り登壇するパネラーの人選をして今日に至った。建築評論家でもある中日ブラジル大使のアンドレ・コヘーア・ド・ラーゴ氏、リオのオリンピックへ向けての都市改革を行ったワシントン・ファジャード氏、日本側からブラジリアの日本大使館の設計を行った槇文彦氏、神宮の森に数々の提案を行ってきた石川幹子氏の4人にスピーチをいただきそしてディスカッション。の筈だったが時間がなくなり一言ずつ最後にいただいた。どうなることかとも思ったが、時間や歴史の重要性を語っていただき都市、建築、緑の専門家の立場から深いそして熱い話が聞けて、聴衆も満足いくシンポジウムだったのではないだろうか。
今度の火曜日5月16日から6月11日まで天王洲の建築倉庫にて現代ブラジル建築模型展が行われます。また5月17日水曜日の夕方6時より、<国際シンポジウム>「リオから東京へ」 – 建築がつなぐオリンピックと都市計画 –を行います。ブラジル側パネラーとして建築批評家としても有名な在日ブラジル大使の アンドレ・コヘーア・ド・ラーゴ氏。またリオデジャネイロオリンピックに向けてリオの都市計画に携わったワシントン・ファジャルド氏。日本側からブラジル日本大使館の設計を行い、またオリンピク施設についてはいろいろな発言をされてきた槇 文彦氏。また槇氏とともに神宮の森への提言を行ってきているランドスケープアーキテクトの石川 幹子中央大学教授にお話を伺います。当日は6時から8時までシンポジウム、その後パーティーを行います。会費は2000円ですが多くの方のご参加をお待ちしております。
先日久々に見た安藤さんの若い頃の作品に不条理を見出した。物の中にある合理では説明のつかない物の体系というものがある。一方今日読んでいた皆川明の『100日WORKSHOP-ミナペルホネンの布地を使って暮らしに空想を取り入れよう』スペースシャワーブックス2017は一見肩の力が抜けた自然と自由を感じるのだが、その実この空想世界の自由というものも不条理ということもできよう。硬い岩山のような不条理と柔らかいカーテンのような不条理とが頭の中で交錯する。どちらもその物が発信する音のようなもので人を説得しているような気がする。もはや建築でもファッションでもなくて音楽である。住むと、着ると音がなり出すようなものなのではないだろうか?
ケヴィンケリーはワイワードの創刊編集長である。彼が分析したネット社会(『インターネットの次に来るもの-未来を決める12の法則』NHK出版2016)は今後とてつもなくますます社会を変えていく。僕もそう思う。12の指標は、変化、認知、流動、画面、アクセス、シェア、選別、リミックス、VR、自己診断、などである。我々の身の回りの多くのことはITにとって変わられ、職能をドラスティックに変えていく。世界一のタクシー会社ウーバーは車を一台も持たず、世界一のメディアFBはコンテンツをひとつも持たず、アリババは倉庫を持たず、エアビーアンドビーは不動産を持たない。所員が一人もいない世界一の設計事務所が出来るのも間近である。
安藤忠雄の最初の作品集はたぶんこのSD81年6月号ではなかろうか?当時大学3年生だったが皆虜にされていた。しかし面白いのは、当時篠原一男、磯崎新が巨匠でいて、にもかかわらずポストモダン全盛期でマイケル・グレイブス、ロバート・スターンなんかがアメリカの風。そこに安藤忠雄もどーんと登場した。玉石混交だったのである。当時安藤40歳。
ページをめくると思い出されるあの感動。そして何がボクらを引きつけたのかとよくよく見たときに、当時の安藤建築にはある種の不条理があったようにいまさら思う。住吉の長屋にの外に出ないと行けない部屋。大楠邸の上げて下ろす動線。小篠邸の緑豊かな敷地で緑が見えない居間。建築が持っている一般的な作法を壊して、そこに生まれる別の「もの」のあり方を提示していることに「戦う男ボクサー安藤」を感じてブルブル震えていたのだと思う。昨今老獪になった。
金町の駅前にちょっと面倒くさい赤提灯がある。酒を頼むとこちらのリクエストを受け付けない。純米?大吟醸?普通の酒?と聞いて4合瓶しかないから。と言ってそれに応えないと何も持ってこない。200種類あるから一番いい酒持ってくるよというのでこちらはお任せと言うしかない。でも任せて間違うことはない。今日も広谷さんと行って美味しい酒を出していただきました。金町一のいい店です。
月曜日はゼミ日。1時から建築理論ゼミ。3時から英語ゼミ。4時半からthesisゼミ。理論ゼミは主として博士。英語ゼミは主として留学生。thesisゼミはm2と4年。博士と学部生のレベルが違うのは仕方ないかもしれない。知識もに能力も違うから。しかし留学生と4年や修士を比べたら能力にそれほど差があるとは思わない。しかしプレゼンを聞いていると迫力が違う。
マルクスは自らの主張を科学的と形容し、オーエン、サンシモンたちの主張を空想だと一笑に付した。マルクスの影響を強く受けた父の世代は自らの社会改革運動を科学と称して科学の条件を理論と仮説と実験(実践)であるとした。それゆえ自らがアカデミックな世界に引きこもることを是とせず生涯実践を継続し、労働大学をつくり理論的な探求も行っている。その生き方から学ぶところは多く自らも理論と実践ということを生涯貫くのだろうと思っている。アカデミックセクターに期せずして入ったがその世界にこもるのは是としない。生涯創り続けることで理論を証していかなければならないだろうと思っている。
予備校の先生が書いた帝国の本(『「覇権」で読み解けば世界史がわかる』神野正史祥伝社2016)が面白い。帝国が文化(建築)をどう他国に植え付けていったかに興味がありいろいろな帝国を調べているが、この本は文化とはかんけいなく、帝国はなぜ滅亡するかを分析する。ローマ、中華、イスラム、大英、アメリカである。この他にもあるのだが、オスマンはイスラムの最後に入り、ポルトガル、スペイン、オランダは大英のイントロとして書かれている。さてなぜ帝国は滅びるのか?一言で言えば1)国内が安定し、2)農業が(工業が)向上すると、3)人口が増え農地(資源)が減り対外膨張戦争を行い国庫が圧迫され、4)増税により農民(市民)の窮乏で反乱が起きるというプロセスである。著者は現在の帝国アメリカも永遠ではないという。現在の彼らの姿を見ているとまさにこのプロセスに乗っている。
ディヴィッド・ヴァイン『米軍基地がやってきたこと』原書房(2015)2016によればアメリカの海外軍事基地は800近くありアメリカ以外の国が海外に持つ軍事基地は50に満たない。この非対称性にまず呆然とする。アメリカは世界の秩序維持を大義名分に掲げるがほんとうだろうか?共和党と民主党の政策で唯一一致すると言われるのがこの基地の維持だという。これはもはや政策ではなく、国防総省が国家以上の権力と化し、そしてそれをサポートする軍事産業との軍産複合体の強大な力に誰も何も言えないというのが実態ではないのだろうか?
これらの基地が起こす弊害は数多あるがその一つが性の問題である。性暴行や売春という形で表面化するが、著者によれば、これは事件を起こした軍人だけの問題ではないという。入隊してきた軍人教育で最も難しいことは人を殺す精神状態を持てるようにすること。そしてそのためには自分が最も強くて相手より上位にいると思わせる。手っ取り早いのはまず女性を蔑視する男性性を植え付けるのだそうだ。この結果が基地外での性問題であるが、基地内でも女性軍人の37%が2回以上レイプされているという統計があるそうだ。
千葉雅也が世の中のノリから一歩引いて、専門分野にディープに引きこもるのが勉強だと『勉強の哲学』に書いていた。つまり勉強するとノリが悪くなる。しかしディープに引きこもるのもひとつのノリに過ぎないから専門分野と世の中の二つのノリの間に身を置き双方に違和感を感じながら新たな言葉を紡ぐのが勉強でありクリエィティブであるという。
もうすぐでる拙著『建築の条件』も建築の世の中のノリを9個詳述した。そして多くの建築家がこの条件に縛られている。(自分も含めて)。しかしそれではダメなのである。自らのディープな探求と世の中のノリの真ん中で新たな言葉を紡ぐのがクリエイティブな建築なのである。ということで建築の条件の副題は-「建築」なき後の建築とする予定である。
学生の卒計に何を求めるかという話で西牧さんは若手建築家のアイデンティティの欠如を嘆いていた。中川さんを始めみなさん同様なことを言っていた。なにか今年のレモンは皆小ぶりで、リノベで、ソーシャルで、身の丈でと判を押したように皆「右に倣え」だったというのが、初日の審査員の皆さんを含めた感想のようである。つまり「建築の条件」に上手に模範解答を出しているのである。社会のノリにそのまんまノっているのである。ノリを悪くしないと!!来年からは。
4年生のプレディプロマ課題。茶室解体。茶室という伝統的な論理構造を換骨奪胎せよというトピックである。論理展開の勉強と、フリーハンドをそうつかいこなせるかがじゅうようである。鳥海のこの作品は、屋根の下の暗い場所に路地をつくり、屋根の上に茶室を作るというはんてんをしたしゅうさくである。
中村安希『N女の研究』フィルムアート社2016のN女とはNPOで働く女性のことである。昨今ハイスペックの女性がNPOに就職したり転職したりするケースが増えているという。その理由は未だに日本企業が男社会であり女性が住みにくいということと本当に自分のやりたいことが営利団体ではできないという認識が高まっているからだという。しかし、、、、こういうハイスペック女性が給料が低いNPOで働ける理由は旦那の給料がいいからだという事実もあるようだ。だからN男の研究はないのである。妻の給料が高くそれに依存してハイスペック男性がNPOに流れるケースはあるかもしれないが量は多くない。著者がN女を2年間しらべて感じた共通点は「行政をあてにしない」「きれいごとを言わない」だそうである。これ一般企業にいようが、どこにいようが、男だろうが、女だろうが重要なことである。