形式性のバイパスを通り抜けるもの
fig.5
連窓の家 #1 2000

fig.6
連窓の家 #1 窓図

fig.7
連窓の家 #2 2001

fig.8
連窓の家 #2 窓図


*16.
坂牛卓 「窓を巡って」 『建築技術』2002年2月号


fig.9
連窓の家 #3 2001

fig.10
連窓の家 #3 窓図

2.拡大された部分がひきおこすこと

 「窓の拡大コピー」が二つのことを引き起こしてくれるのではないかと期待した。一つは窓がその形式を踏襲しつつ変化していくというその変形過程でその窓を構成するガラスという素材が違う何かに移行していくということ。二つ目は窓が延々連続することにより、窓が一般的に持っている機能を超えて、内外部の風景との新しい関係を持ちうるのではないかということである。

 一つ目の点について記してみよう。素材というのは建築を考えていく上で、極めて社会的な意味を多く担ったものである。ミニマルアートの例が示した通り、アートがその自律性を標榜しながらこの素材性が外部性を担ったというフリードの指摘はこの素材性に社会的意味が付与されているという見方を前提としている。そして質料がこうした言語的フィルターにかかってしまうことは免れ得ないものの、その言語的コンテクストへの回収からの逃走は不可能ではない。

 篠原・ミニマルアートが示したように素朴な素材がコンテクストを換えて提示するということにより強度を獲得できたのはその良い例である。こうした言語フィルターからの逸脱はコンテクストの変化だけでなく、素材の形の変化からも生じると思われる。それは素材が形とセットで言語化されているからである。たとえば豆腐。豆腐は四角いものとして言語化されている。だから四角錐の豆腐があったらこれは一見プラスティックか大理石に映るかもしれない。ガラスも普通窓に使われる形があるもので、それとセットとなってガラスの知覚が成立するようになっている。そこで、窓をひたすら引き延ばす、その時こうした理由から、何か別種の物へと移行するであろうと期待したのである。普通のガラスとはちょっと違う何かに映ることが意図されたのである。 

 さて、窓を引き伸ばすことでおこるであろう2つ目の点であるが、それは視線の問題である。ギブソンが開口部にどのような思い入れを抱いていたか細かく知る由もないのだが、それは、避難所という観点からすれば、外から見れば、中を伺い知る部分であり、中からは外を伺い知る部分であったはずである。要は敵との関係を知る部分である。現代の日本の住宅において外敵という概念との関係を問うことはあまり適切とは思えないが、しかし、開口部を通して外から見られてしまうこと、そして中から(やはり)見えてしまうことは相変わらず窓の担わざるを得ない機能なのである。ところが、窓の連続はある高さから、視界は空へと広がる、場所によっては、人が現れない方向に(例えば森に)広がる。そうすると、実際その窓の性格はかなり決定的に異なる。そちらに向かって住人はかなり無防備に変化するのである。その変極点がひとつの連続体の中に現れてくることがこの窓の引き伸ばしによって現れてくるのである*16

 以上二つの変化はドラスティックな見え方の変化ではない。例えば写真などの中で顕在化しにくい類いの変化かもしれない。しかしそこで建築が少し変化する。全体に散りばめられた部分の山積はこうした小さい変化の積分として建築のありようを少しずつ動かす力になると思っている。

 篠原・ミニマルの示す質料的なるもの、自作都市モニュメントに見た質量的なもの、自作住宅に見た部分的なもの。これらは全体形式のバイパスを通過するものである。全体形式のバイパスは既述のとおり、歴史的流れの中にある。その意味で広義のポストモダンであり現代の状況の根に横たわっているものだと思われる。だからどこかしら多くの建築にこのバイパスが横たわっているようにも見える。しかし問題はそこを意識的に取り出すこと。その中に建築の全体形式を構成していく可能態アマルガムのごときものを通過させていくこと。そこに僕の興味はある。そして長々と書いたが、この質料やら質量やら部分と呼んでいる可能態アマルガムとは実は一言で言えば、ロゴス化しにくいものに潜む様々な様態のエネルギーのようである。しかしそのエネルギーを放置せず何らかの網をかけていくこと。何らかの「形」で顕在化させること。そこにいろいろなことがおこりそうな予感がしているのだが。

初出:『建築技術』2002年5月号


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