形式性のバイパスを通り抜けるもの

*1.
Josep Maria Montaner "Taxonomy of Minimalism" Less is More minimalism in architecture and other arts Barcelona 1996 、
『SD』1997年3月号、ミニマルスペース・アーキテクチャ特集

*2.
Josep Maria Montaner op.cit. においては建築家として、ヒルベルザイマー、パイイヒル、ヘルツォーグ、ペロー、日本の建築家としては安藤忠雄、篠原一男が取り上げられている。

*3.
マイケル・フリード 川田都樹子・藤枝晃雄訳 「芸術と客体性」『批評空間-モダニズムのハードコア』1995
Michael Fried "Art and Objecthood" Minimalism Art ed by Gregory Battocock, N.Y. 1968
 昨年〔2001年〕の夏MOMA及びホイットニー美術館においてミースの回顧展が行われたのは記憶に新しい。また世界巡回の一環として去年〔2001年〕の夏千葉市立美術館で「ミニマル・マキシマル」展が開かれた。これはミニマルアートのその後の展開を跡付ける展覧会であった。またやや旧聞に属するが、96年夏バルセロナでは‘less is more’というタイトルのもと建築及び他の芸術におけるミニマリズムを取り上げた展覧会が開かれた。90年代後半からミニマルな建築、或いは60年代のミニマルアートに影響を受けたミニマル的アートが相互に影響をしあいミニマルでシンプルな造形を好む空気が流れている。

 こうした風潮の中、アートにおけるミニマリズムと建築におけるミニマルなデザインを結びつけて論じる試みは少なからず見受けられる*1。そしてそうした論考の中で度々篠原一男は議論の対象となる。しかしそこでの氏の扱われ方は感覚的あるいは形式的である。軽井沢谷川邸のソフトフォーカスの写真が殆ど何の説明もなくミニマリズム建築として紹介されたり*2、直方体の森がミニマリズムのキューブの反復との類似性で提示されたりしている。しかし篠原に限らず、昨今のミニマリズムブーム(と呼んで差し支えないと思われるが)をこうした表層的な形式性のみにその原因を見るとするならばそれは大きな誤りと言わざるを得ない。それは形式の裏に潜む別の原因に依拠する部分も大きい。その点を明確にする意味も含めて、本稿では先ず、ミニマリズムの別な側面:フリードの言う「客体性」*3、そしてそれが結果的に現代的な意味を持ちうる質料性という側面に注意を向け、それらと篠原の関係を観察する中に両者の相同性を指摘し、更にそこから導かれる建築の可能性の一端を自作をとおして提示してみようと考える。

Next