形式性のバイパスを通り抜けるもの

*4.
グレゴリー・シュテムリヒ 池田祐子訳 「ミニマルアートの基本概念」『ミニマル・マキシマル』2001 千葉市立美術館 Gregor Stemmrich "Grundkonzepte der Minimal Art"

fig.1
fig.1
Frank Stella, Black Painting, 1958-1959.

*5.
クレメント・グリーンバーグ 川田都樹子・藤枝晃雄訳 「モダニズムの絵画」『批評空間-モダニズムのハードコア』1995 Clement Greenberg "Abstract Expressionism" first published in Art International 25 October 1962, revised in New York Painting and Sculpture:1940- 1970 ed. by Henry Geldzahler.

*6.
岡崎乾二郎はフリードの批判の核心を次のように捉えている。「……その核心はというと、基本的に、ミニマリズムは実在性に依存している、あらかじめあるものに依存している、ということだと思う。それは結局は、実在を実在として成り立たせている公衆に依存しているということです。……ミニマリズムは、物体を提示してそれが三次元で完全に自律すれば、あらゆる伝統から自由になれると言うけれど、実はそれはア・プリオリにはありえないというのが、フリードが言った重要な点です」
「モダニズムの再検討」『批評空間 モダニズムのハードコア』1995 
I コンテクストからの飛翔そしてその行方


1、ミニマリズムの客体性

 ミニマリズムはフランク・ステラがレオ・キャステリの画廊でジャスパー・ジョーンズの「旗」を見たことに端を発するという有名な話がある。彼はそのスターズ&ストライブスからストライプという形式だけを獲得してひたすら縞模様を描き始めた。それは「ポピュラーな図像を借りることなく、伝統的な絵画空間を絵画から追放し、物質的物体としての絵画作品の地位を明確にしようと」*4 する試みであった(fig.1)。

 こうしたミニマルアートの理念はグリーンバーグ等が唱えたモダニズムアートの理念*5 にある点で共鳴し、ステラはそれをより徹底していったと言える。

 そしてそこで獲得されたことはステラの有名なことばでもある「目に見えるものしか見えない」というそれである。つまり、そこにこめられた様々な思いというような視覚化されないものを伝える意思はそこにはない。ここに、アートがその意味を発生させるコンテクストから離脱した一つのピークを見て取れる。

 しかし、グリーンバーグの強い影響を受けたモダニズム擁護の美術批評家マイケル・フリードはミニマルアートの純粋性に対して異議申し立てを行った。彼は「芸術と客体性」(1968)の中でミニマリズムを客体性・演劇性という二つの観点から批判的に捉えた。演劇性についてはここではふれず、客体性について取り上げてみたい。客体性とはそれまでのモダンアートが(それはほぼ絵画を指すのだが)絵画の支持体としての平面キャンバスとその上の絵の具にのみ依存していていたのに対して、ミニマルアートが既成のマテリアルを持ち込んできたこと、すなわち、アートの構築要素(キャンバスと絵具)の純粋性を放棄してアートの外部から物を持ち込んできたことを批判したのである*6

 ミニマルアートが既述の通り、モダニズムアートの自己言及性を引き受け、自律した純粋芸術を目指したことにおいて、歴史的にはモダニズムアートの一つの終点を形作ることになったのだが、フリードの指摘の通り、実は見方によっては不純な要因が紛れ込んできたのである。しかしこれが不純であるかどうかあくまで相対的な価値の付与の問題であり、言い方はどうにでもなる。むしろ重要なことは、アートが持つある種の「力」を作り上げる場所が移動したということである。つまりそれまでの抽象表現主義と呼ばれる、デ・クーニングやポロックらの絵画がその画面上のメディウムのもつ豊かさ(表現と言ってもよいが)によって「力」が作られていたのに対しミニマルアートではこうした作者による豊かさ(表現)の創出というものが徹底して削ぎ落とされ、そこに残されたのは正にフリードが批判したところの客体それ自体であり、その客体がアートの外の世界で持っていた意味のコンテクストだったと思われる。つまり再現芸術である絵画のコンテクストから完全に離脱しながら別のコンテクストへのバイパスが準備された。そしてフリードの批判とは裏腹にこの点にミニマルアートの力があったと私には思われる。

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