*13.
その意味で、これに続くポストモダニズムという現象も篠原・ミニマルと相同的と言えるのだが、そこでは逆にこれらの形式性の差異が各々を分け隔てている。
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3.転換点の感性
歴史を紐解くなら、そもそも質料形相といった概念が登場するのはギリシャである。建築が素材と形で出来ているのにヒントを得たプラトン/アリストテレスはそれまでの自然の生成の哲学を改め、形(形式)には理念(イデア)がありそれに向かって、素材(質料)が形作られているのであると考えた。その後形式重視の歴史は続き、近世、カントは美学的に「形式」を再度強く美の要素とし、絵画でも建築でも重要なのは輪郭線(形式)であり色(質料)は二の次であると言明した。この結果近代の美はこの形式を純化させることに邁進した。すなわち、篠原・ミニマルの中に見られた自律的自己言及性とは歴史的には純化された形式性と見ることが出来る。しかしこうした形式重視の考え方が20世紀前半に崩れ、ハイデガーによってプラトン以前へ遡ることが提示された。要は形相の持つ本質への問いから存在への問いへと視線が変更された。この視線変更が、脱構築の基盤となっていることはよく知られるところである。そして現在から振り返ればこうした形式からの解放の先鞭をつけたのがアートワールドにおけるミニマルアート、建築における篠原であったと言えよう。そしてこうした歴史のある共通した系の中から生まれてきたという意味で私はこの二つを相同的という言葉で表してきたのである。
さて、歴史の上で質料性を位置付けてみると、篠原とミニマルアートに現れた相同的な現象がある必然の如く見えてくる*13。すなわち、モダニズムという形式化の限界の中に意識的か無意識的かその時代の鋭敏な感性が時代の転回を予感したと見えてくる 。そして未だにモダニズムの呪縛の中にいる現在この感性の示唆するところは豊かであると私には思われる。
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