形式性のバイパスを通り抜けるもの

*12.
多木浩二 「続・篠原一男論 〈意味〉の空間」 『新建築』1971年1月号


fig.3
fig.3
篠原一男 「地の家」 1966

2.隠された質料性

 篠原一男の建築は極めて強い形式性を保持している。この場合形式とはその建築を支える強固な論理と純粋な幾何学形状のことを指す。純粋幾何学の強い形式性は篠原建築を視覚的に強固な存在として現出させる。既述の象徴性も建築的な部位(梁、天井、柱、壁)つまりは形式を操作することで作り上げられていく。しかし篠原が象徴空間を意識的に操作したのは「白の家」(1966)までであり1971年「未完の家」「篠さんの家」を発表した時には「象徴空間をこえて」という論考を発表している。そこでここでは敢えて、篠原が明示して作り上げた象徴性ではなく、しかも強い形式性の影に潜み見えにくくなりつつも篠原建築に一貫して見られる別の象徴的なものに注目してみたい。

 それは篠原が建築の中に持ち込む、色であり素材である。多木浩二が指摘する*12 までもなく、篠原の建築には定期的に、強烈な色が現れてきた。白、黒、赤、金それらが篠原の情念的なものの現れなのかそうした情念との決別の証なのかその読み方はこの際あまり問題ではない。少なくとも、そうした想像を観者に掻き立てるだけの力を持たせている意図がそこにあることだけは否定できない。また素材についても例えば、「地の家」(1966)の釘打された鉄板(fig.3)。

 篠さんの家(1970)における入り口広間回りの全てを覆う金色の壁紙。「谷川さんの住宅」(1974)の突き固められていない斜の土の床。「上原曲道の住宅」(1978)の丁寧に内装された広間に忘れ去られたかのように取り残された荒々しい柱梁の打ち放し。こうした素材に観者は形式性と同等あるいはそれ以上の精神性を感ぜずにはいられない。それらはなにがしかその住宅の主題に絡む深遠な意味への到達を彼岸とした訴えとして響いてくるのである。これを象徴性と呼ぶかどうかは別としてもそこにはある精神的なものを現象させる契機を内包していることは間違いない。

 篠原の建築は自律的自己言及的でありながら一方で実は象徴的なるものを介した建築外部への回路を擁しており、その象徴の一端を担うものがここに示したとおり質料性である。このアンビバレントな構造つまり完結的に見えながら完結性を放棄する構造、そしてその完結性に空いたバイパスを通り抜けるものが質料性であるということ。この一連のシステムは既に見たミニマルアートに見られるシステムと相同的と言える。

 この相同性は様式を切断していく篠原建築において、形式的には見えにくくなる時代もあるのだが、ここで指摘するような質料的側面においては、篠原が設計者として言明しているかどうかは別にしても一貫して看取できるのである。

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