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IV 住宅へ
モニュメントも住宅もその表現の中心に根ざす志向は同質であろうと思う。全体の形式性をバイパスすること。そしてそこに何かを通過させること。
建築は最終的にある形を持つものである。更に建築という言葉が示すものは正に形式性の構築と言ってよい。だから完成形は存在する。しかしそうした全体形式をバイパスすることは歴史的にある必然であったことを指摘したが、現実社会の中でこの完成形への関心が実際薄弱になってきているように感じる。それは既にモダニズム建築がそれまでの様式建築のヒエラルキーを崩壊させた時に始まったことかもしれないが、現代において、我々の関心の対象は極度に断片化されている。その原因の一つは人々の知覚や記憶の環境が変化していることに関係している。記憶がデーターファイル化され、モバイル上で何処でも取り出せるようになってきた。記憶の全体性やその関連といったものが不要になり、断片化された映像やテキストがボタン一つで現前化されるようになってきた。それまで人々は断片化した情報を秩序化して自らの脳の棚に整理していた。しかし既述のとおり今日その必然性は余りない。とにかくファイルしてセーブしておけば良いのである。こうした断片化されたものをそのまま飲み込んでしまうような感性の習慣が断片化への指向を助長している。
更に、我々が受け取れる情報量は飛躍的に増大している。ウェブ上には動画が散乱している。環境は凄いスピードで情報を我々に提示している。一方受け取る側の能力はそれと同じ速さで増大はしない。従ってここでも我々の知覚は断片化されざるを得ない。
昨今都市とインテリアへの関心が高まっているがそれはこうしたことに関連しているのではないだろうか。先ず日本の都市を見るならばそこにあるカオス的状況は例えばヨーロッパの歴史都市が持っているような秩序感を持たない。そこでの物理的実体は全体としての統一性の中にあるのではなく、周囲との脈絡を欠如したまま個別的に存在している。そうした断片的ともいえる実体はそれを感受する側の断片化ファイルセーブという感性に程よくマッチしている。そして都市から建築の内部へ入り込む時、そこでは建築の全体性或いは形式性への関心は素通りされ、ある一時身を委ねる内部空間の表皮にのみ身体的関心が発露する。ここでも建築の断片化されたインテリアの部位が心地よく受容されていくのではなかろうか。
こうした知覚環境の変化は私自身の全体形式性への興味を薄弱にする。そして既述の全体形式性をバイパスする篠原ミニマルの示唆と併せて、建築を構成している可能態アマルガムとしての部分への興味が高まった。そして、それを建築化することを考え始めた。しかしそこには2つの問題がある。1つはそれが何か或いはどういう概念であるのかということ。そして2つ目は建築を部分から構成しようという言葉が回収されてしまいそうな自らの思考の行き先が単なるトートロジーを回避できるのだろうかということである。建築はおしなべて部分の集積である。だから「部分から成る建築」という言葉が意味を持つとするなら、それは部分と思われているものが全体を包摂するまでになるような、意味や形の肥大化、転倒が画策されていなければならない。部分が部分としての自律性を確保しながら全体となるというような逆説の中にこの建築を定立できなければそれはトートロジーで終わってしまう。
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