形式性のバイパスを通り抜けるもの


fig.4
fig.4
日建設計・東京湾横断道路(株) 「東京湾アクアライン風の塔」 1998

*14.
坂牛卓 「機能的であること」 『建築技術』1998年3月号
III 都市モニュメント


 形式性をバイパスするもの。篠原・ミニマルの場合それは質料だった。ところでこの質料という概念は歴史的にみるとその量を規定する「質量」という概念を導いた。この概念の正確な定義はおいておいて、当然のこととして、ものには大きさがある。(それをここでは「質量」と呼ぶ)。建築に限らず、身の回りの物理的的な環境はすべてこの質量をもっている。そしてこの質量を測る物指しを我々は自己の中に持っている。それはもちろん正確で客観的な物指しではないし、個人差はあるものの物の大きさの概略を測る性能を持っている。しかしこの物指しもある大きさを逸脱した時その能力を失うような気がする。例えば10階建て程度のビルまでならば、我々はその建物をみて階数の見当をつけることができる。しかし100階を超えるような超高層ビルの前に立たされてもその大きさの見当はつきかねる。シカゴでシアーズタワーを見たとき、私は驚愕した。建築の専門家としてそのビルの階数も高さも知っていた。しかしその前に立たされた時、この建物の高さを測りとる物指しは機能していなかった。私の中にあったのは「高い」という驚愕だけである。この驚愕がスカイスクレーパーという言葉を生んだということが理解できた。つまり心の物指しはある数値を超えた対象に対しては客観性を失い感覚的な認識指標へ移動する。

 モダニズムの初期に多くの画家やカメラマンはこの質量の力に感銘を受けて様々な作品を残した。彼らは巨大な構築物(橋や摩天楼や巨大船)の造形から強い印象を受けたであろうが、なんと言ってもそれまでの技術では到底考えられなかったようなその大きさに驚愕した、と私は思う。しかしこの驚愕は残念ながら恒常的なものではなかった。20世紀初頭の機械時代の勇ましい構築物へのロマンは長続きしなかった。モダニズムのロマンチシズムを担った質量に私たちはもはや心動かされにくい。純粋な質量から発せられる衝撃の周りに歴史的な意味のオブラートがかけられてしまう。しかし、純粋にただ高いもの大きいのも長いものに対し人間は尚本能的な畏怖の念を持つ。それは巨大な自然に対峙した時の感覚に似ている。


 4年前、私は東京湾の真中に直径200メートルの島の上に高さ75メートルと90メートルのツインの海底トンネル用換気塔を設計した(fig.4)。これは換気塔であると同時に東京湾の入り口のモニュメントであることが意図された。自由の女神やシドニーのオペラハウスのような海の玄関のモニュメントが望まれた。しかし私達はここにモニュメント特有の物語を挿入することはしなかった。ここでは純粋に大きさだけがあれば良いという基本的な考え方を中心に据え、後は機能性をそのまま形にした。排気が効率的に行われるための形状を風洞実験を重ねながら模索し、二つの円弧の形状を決定した。レーダー障害がおこらないように円筒形を斜めに切りかつ、断面にむくりをつけた*14。そして90メートルという羽田の航空制限内に入る許容最大の高さを確保した。90メートルとはゆうに20階建てビルより高い構造物である。しかし、既述のとおり質量の力を過信できない不安定な状況も無視はできない。純粋な大きさへの期待はあるもののそれが何処まで純粋であるかは判断が難しい。質量にある変換を加えざるを得ないと感じた。そして機能とは一切関係無い地点でこの換気塔を12度傾けた。変換した質量に期待した。

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