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久しぶりに東京駅の丸善に行って消費関係、視覚関係の本を10冊くらい買って4階のカフェでランチしながらちょっと読む。連休に読んでしまいたい。カフェを出て初めて郵便局のリノヴェスカイスクレーパーの足元に行って見る。東大の博物館を見たかった。いや噂にたがわぬ見ごたえ。無料でこういうものを展示するというのは悪くない。
ジムでひとっ走りして帰宅して買って来た本を読む。矢部謙太郎『』消費社会と現代人の性格―分析ツールとしてのボードリヤール」学文社2009は早稲田の教科書シリーズ。とても分かりやすい。食後にティルマンスの写真集『Wolfgang Tillmans』美術出版社2014を眺める。昔よりきれいな写真が増えてきたような印象。
輪読ゼミには出られるときは出ようと思い午後大学へ。先週は斉藤純一『公共性』を読み、今日は馬場正尊『Re PUBLIC 公共空間のリノベーション』を読んだ。馬場さんの本は分かりやすく発言も多かった。
馬場さんの本では公園、役所、水辺、学校、ターミナル、図書館、団地を公共空間としてリノベーションした事例を紹介している。1月にスペイン、アルゼンチンの建築家たちとシンポジウムを行い都市の公共空間として重要なところはどこかと問うとスペインのジョアン・ロイグは広場より、空港だと言っていた。その理由は現代人にとって移動が必須であり移動する人が集まる場所が空港だからだと言う。広場は前時代の遺物でこれは再整備(リノヴェーション)しなければいけないとも言っていた。ロイグと馬場さんには多くの類似点が感じられる。
フランセスク・ムニョス(M. Munoz)竹中克行 笹野益生訳『俗都市化―ありふれた景観 グローバルな場所』昭和堂2013(2008)を読んでみた。どこかの書評に載っていて気になって積読していた本。
この本の原題はスペイン語でurbanalizacion paisahes communes lgares globales である。この最初の単語は造語で都市化(urbanaize)と凡庸を(banal)くっつけた語である。この本の内容を一言で言えばグローバリゼーションは世界の風景を凡庸化しているというものである。その理屈はグローバリゼーションは政府が加速度的に小さくなるがゆえ世界は民間資本の論理で作られ、利益追求がベースにある。利益追求は街の物理的環境に対しては1)閉鎖的巨大コマーシャルコンテナを作り、2)均一化した住宅を郊外にスプロールさせ、3)従来の街と街路広場といった都市の網目を切断しているという。一方グローバル化によって人々は世界中を遊歩し定住せず街を適度に食い散らす。この建築・都市とそれを使う側双方のグローバル化が建築・都市の場所へのアンカーを解き放ってしまう。すなわち世界をどこでもまるで同じものへと導いていくと言うのである。
しかしこの本で正直言って最もショッキングなことの一つはこの凡庸な都市のケーススタディとして挙げられているのが、ロンドン、ベルリン、ブエノスアイレス、バルセロナだという点である。それぞれ個性的な都市だと思いつつ、読んでみると確かに今はそうかもしれないがゆくゆくますます凡庸化する可能性を持っているとだろうと言う変化が説明されている。
先日も書いたけれどスター建築家が世界に自らのアイコンをスタンプする状況も書かれていた。そう言えばブエノスアイレスのプエルトマデーロには世界中どこにでもありそうなカルトラーバの橋があるしペリのスカイスクレ―パーがあたのを思い出す。
朝9時半から金箱さんと打ち合わせ。あれあれ9時25分だと言うのにスタッフがおらん。そのうちスタッフより先に金箱さん来ちゃった。やれやれ。
一度に3つのプロジェクトの打ち合わせ。実施終わり、基本終わり、基本始まりとフェーズが異なる三つなので頭の切り替えが大変。来月金箱さんといっしょにやる東工大の課題について一言二言話す。もっと話したいのだが時間が無い。
事務所を出て学会へ。プログラム編成委員会で建築論、意匠論のプログラム作りを奥山さん、市原さん、岩岡さんたちと行う。終ると5時。
夜神楽に戻り4年生のプレディプロマの最初の発表を聞く。今年はとっかかりをはっきりさせるために、コンテクスト、プログラム、エンジニアリングのどれに着目するかを宣言させることにした。さてこれがうまくいくだろうか?
月曜、火曜とゼミ、授業、演習が集中し一日が長い。
午前中事務所で打ち合わせ。軽井沢の別荘がそろそろ見積もる段になってきた。早草さんに電話をして軽井沢の施工事情を聞く。貴重な情報をいただく。事務所を出て神楽でうどんを食べて主任会議。1時から始まって終わると4時半。3時間半の会議って耐え難いと思うのだがだらだらやっているわけでもない。伝えることの量がとんでもなく多いから仕方ない。会議資料がA4で100枚以上もある。
4時半に会議室を出て2時半から始まっているゼミの部屋に行く。ちょうど輪読が終わったところ。学生が多いのにびっくり!!狭い部屋が学生で溢れている。研究室にはいつも誰もいないのだが。一時間設計の課題を出してから3年生の製図の授業へ。
3年の第一課題は荒木町の集合住宅。非常勤、川辺スタジオ、高橋堅スタジオ、塩田スタジオ、若松スタジオ、木島スタジオ、呉・坂牛スタジオの全部で6スタジオが同じ課題をそれぞれのコンセプトで進めている。我々はライノとフローデザインで模型を作らず課題に取り組もうと言うコンセプト。今日は初日で学生にライノ講習。果たしてどこまで到達できるか?
夕刻高橋堅さんの新作を見学に行く。高橋さんの建物はスライドレクチャーでは散々見ていたが本物を見るのは初めてで予想にたがわぬピリピリと緊張した空間に目を見張る。コンクリートの扱いが僕なんかとは全然違う。砥石で磨いたようなテクスチャーと輪郭である。そして壁を二重に張り巡らし外側の壁に正方形の開口を穿つ大きな造形が繊細なディテールと強烈なコントラストを生み出している。内部のディテールも分かっちゃいるけれど出来がいい。開口を制御するその仕組みは高橋オリジナルなものがある。いいものを見せてもらいました。
現場でばったり石黒さんにお会いした。彼女は4月から前橋工科大学の准教授になったとのこと。おめでとう。これからは教員ネットワークの一員としてよろしくお願いいたします。
初年度最初のゼミ。金町と神楽を又にかけて先生は授業を学生はTAをしており結局神楽でゼミをすることにした。しかし神楽も混んでいて部屋がなかなかとれず、初回のゼミは製図室。一人30分の6人3時間。初回にしては充実していた。着実にデヴェロップしていってほしい。その後3年生の計画・意匠2の講義。終ると9時をまわる。
4時から9時まで5時間何も食べられないと思い、大学に行く前に事務所近くでつけ麺の大盛りを食べた。満腹で眠くなると思い眠くならないドリンクを飲んだら、確かにこれが効いて快調にゼミを終えた。更に大盛りつけ麺も効力を発揮して9時半に帰宅してもまったく空腹感は無かった。つけ麺大盛り恐るべし。
最近のヤンキーは第三世代ヤンキーで喧嘩はしない。地元が好きで、空気を読んで友達の和を大事にする閉じた人間関係の外に出ない人たちだそうだ。第一世代は地元志向だけれどワイルドな不良、第二世代は中央志向でワイルドないわゆるヤンキーから比べて第三世代はマイルドである。しかし依然として彼らは独自の自由な世界を築いているように見える。(原田曜平『ヤンキー経済』幻冬舎新書2014)
自由と言えば最近売れているもう一つの本、岸見一郎、古賀史健『嫌われる勇気』ダイヤモンド社2014ではアルフレッド・アドラーの自由論が子弟の会話の形で語られている。ここでは自由とは「人の期待に応える承認欲求を捨て」「他者の課題を切り捨て」そして自分を生きることで初めて獲得できるものであると説く。一見このアドラーの自由はヤンキーの自由と重なるが似て非なる自律的な生き方であることに気付く。
どちらがいいとは言わないが後者の方が楽な(自由な)生き方だと僕には見える。
神楽坂と外濠をテーマとしたレクチャーとトーク会が理科大の森戸記念館で夕方行われた。伊藤裕久先生のレクチャーを聴きながらああこの間ふらふら歩いていた横寺町は近世に集められた寺なのだと知る。なんとも面白かったのは三つほどあった。一つは外濠の外側である神楽坂などは江戸城ができて放射状に発展した街であろうという予想に反し、じつは中世、戦国時代に既に築きあげられていた構造を下敷きとして発展した場所であるということである。二つ目はこの神楽坂という町が酒井藩邸を中心とした小城下町のような空気を持っていたということ。そして三つ目は江戸と言う都市が江戸城を中心として放射状に発展した街ではなく、神楽坂のような江戸以前の都市構造を基盤とする小城下町がモザイク状に付置された都市であるという点である。
レクチャーの後宇野先生(理科大)、伊藤先生(理科大)、福井先生(法政大学)、福井会長(神楽坂商店会)によるレクチャーをネタにトークが行われた。そこで出た面白い話。神楽坂の路地は多様性がある。という福井先生の観察に対し、伊藤先生がその理由の一つは神楽の路地は私有地であり、それぞれの土地所有者がそれぞれの個性で築きあげたからだろうとおっしゃった。これは目から鱗である。なるほど。
武道館で入学式をしてその後神楽坂の教室で父母懇談会まで時間があったので博報堂ブランドデザイン編『思考停止ワード44』2013アスキー新書をルノワールで読んでいたら眠ってしまった。
この本は、この言葉を発するとそれで皆が納得した気になって思考が止まるという言葉を44選んだものである。それぞれその通りと思うことが多い。
たとえば「きてる」という言葉がある。それは今ブームであるというような意味であるが、この言葉一つでプロポの案が決まったりするらしい、加えて顧客側も「きてるね」でその案を受け入れたりするそうだ。しかし今「きている」ものは明日駄目になるかもしれないと著者は言う。必要なのは「きてる」ではなくて「きそう」だろうと。これは建築でもそうだ。やたら学生は流行の雑誌を見ては「きてる」デザインをぱくるのだがそれではダメだ。「きそう」を考える習慣をつけないと。
一昨日(になるのかな)ニューヨークで話をしていたJS(japanSociety)のの芸術監督である友人の仕事は日本のアーティストをNYCに呼ぶことである。ここに呼ばれるということはそれだけで日本のアーティストが世界で認められる第一歩でもある。ここ5年で呼んだ人のリストを見せてもらった。それはそれは凄い顔ぶれである。人間国宝もほとんどno gurannteeで来る場所である。が、僕がとても押すダンサーは未だ呼ばれていない。呼んだら?と言うとステージ部門でNYCで200人客を集められない人は呼ば(べ)ないと言う。なるほど。でもそうすと勢いメジャーアーティストになる。それって結局結果が分かっているアーティストではないか?そういうのをJS(NPO)ば呼ぶ意味があるのか?水戸黄門みたいなものを見て楽しいか?という疑問になる。僕にとっては少し????である。とはいっても彼女が呼んでいるアーティストでもっとも水戸黄門的なのでも坂本龍一くらいなのではあるが。
これはかなり激論になった。to make a long story short 彼女は何時までも同じことをやり続けながら少しずつ変化する年寄にもcreativityがあると言う。僕はちょっと違うと思う。creationとは若い細胞にあたえられた特権である。だから古い細胞がのろのろやっていることはcreationではなくてmatureなのである。もちろんmatureとcreationを同列の価値基準で語るものではないが。
JSが円楽を呼び、萬斎を呼ぶならばそれはそれでよい。でもはっきりとした基準を提示するべきだと僕は思う。それはもちろんJSだけではなく、建築を含めたアートのクリティーク、ジャーナリズムも心得ておくべきことではなかろうか。
昨晩友人から聞いた見るべき場所を夜中メモった。飛行機に乗るまでの時間でどこまで見られるか。9時にホテルをチェックアウトして、地下鉄を乗り継ぎチェルシーに行ってMPD(meat packing district)なる昔の食肉工場を改装してフードコートやブティックがならぶ中を走り抜け、ハイラインに上る。ここは思った以上にいいものである。その後北上してリンカーンセンターン回りのスコフィールドが増改築した広場でハンバーグを食べる。タクシーでセントラルパークを東に横切り地下鉄で北上。月曜は美術館がだいたいしまっているのだが数少なく開いているグッゲンハイムへ。ここではCarrie Mae Weemsの写真展が行われている。友人が見逃すなというので来てみた。写真にテキストを重ねたナラティブな表現が思いのほか刺激的だった。3ブロックダウンしてノイエ・ギャラリ―に行く。ここはドイツ、オーストリアアートが中心。ナチ時代の反モダニズムアートの展覧会(Degenerate Art)が行われている。小さなお家がギャラリーになっていて快適。
地下鉄でダウンしてホテル近くでビュッフェサラダをかきこみホテルで荷物をとってシャトルへ。いやー4キロくらい走っただろうか。いいエクササイズでした。