グローバリゼーションが世界の風景を凡庸化する
フランセスク・ムニョス(M. Munoz)竹中克行 笹野益生訳『俗都市化―ありふれた景観 グローバルな場所』昭和堂2013(2008)を読んでみた。どこかの書評に載っていて気になって積読していた本。
この本の原題はスペイン語でurbanalizacion paisahes communes lgares globales である。この最初の単語は造語で都市化(urbanaize)と凡庸を(banal)くっつけた語である。この本の内容を一言で言えばグローバリゼーションは世界の風景を凡庸化しているというものである。その理屈はグローバリゼーションは政府が加速度的に小さくなるがゆえ世界は民間資本の論理で作られ、利益追求がベースにある。利益追求は街の物理的環境に対しては1)閉鎖的巨大コマーシャルコンテナを作り、2)均一化した住宅を郊外にスプロールさせ、3)従来の街と街路広場といった都市の網目を切断しているという。一方グローバル化によって人々は世界中を遊歩し定住せず街を適度に食い散らす。この建築・都市とそれを使う側双方のグローバル化が建築・都市の場所へのアンカーを解き放ってしまう。すなわち世界をどこでもまるで同じものへと導いていくと言うのである。
しかしこの本で正直言って最もショッキングなことの一つはこの凡庸な都市のケーススタディとして挙げられているのが、ロンドン、ベルリン、ブエノスアイレス、バルセロナだという点である。それぞれ個性的な都市だと思いつつ、読んでみると確かに今はそうかもしれないがゆくゆくますます凡庸化する可能性を持っているとだろうと言う変化が説明されている。
先日も書いたけれどスター建築家が世界に自らのアイコンをスタンプする状況も書かれていた。そう言えばブエノスアイレスのプエルトマデーロには世界中どこにでもありそうなカルトラーバの橋があるしペリのスカイスクレ―パーがあたのを思い出す。