2009年07月13日

最終講お題

さて言葉と建築もやっと終わり。この最終講義ではまとめの意味でちょうど真実と言う言葉が登場した。これは我々が建築を作るうえでの拠ってたつ基盤のようなものである。もちろん講義でも話したとおり現在我々皆が信じて疑わないような真実は探すのが難しい。それが相対主義の時代と言えばそれまでである。しかし2000年に入り我々はそんな態度でいつまでも「何でもありよね」と言っている訳には行かない。もはや態度決定をしない人間は格差社会の底辺に突き落とされると言われている。そこで聞きたい。この時代に自分が何に真実を求めて建築を考えていくのか。答えは些細なことでも構わない。小さな事実の集合かもしれない。考えて欲しい。

2009年07月06日

第12講お題

建築が生まれた時から構造はあったのだが、「構造」という言葉が使われた(その要素を自覚的に認識し始めた)のは近代以降であった。そしてその契機は生物学にあったというのが今日の話しのスタートである。そして現代の建築家は構造を見せるか隠すか、あるいはそうした力の流れの整合性をよしとするかしないか自分の考えを申し上げた。ところで君達はこうした構造が露出することをよしとするのかしないのか?構造を建築の意匠としてどう考えるのか論じて欲しい。

2009年06月29日

第11講お題

空間を定義せよ。その定義を使って君の理想の建築を説明せよ。

2009年06月22日

第十講お題

去年のこの講義のお題は次のようなものだった「『無秩序にして簡潔なもの』こう言うものは存在しないだろうか?事例を挙げて説明してほしい。必要があれば君なりの秩序、簡潔の定義も付記すること」。そこで今年のお題は「『秩序はあるが簡潔ではないもの』『無秩序にして簡潔なもの』この双方を事例を挙げて論じてほしい」

2009年06月15日

第九講お題

今日はカトルメール・ド・カンシーに注目したい。つまり我々が自然を学び、それをもとに作り上げられることは①その物質的模倣、②自然に対して我々が抱く観念、であると彼は言う。あるいは①を作った結果として②が自動的に生まれてくるかもしれない。
この②を考えてみてほしい。われわれが自然に対して抱く観念とは何か?そしてそれはどうしたら建築に再現できるのか、その二点について論じてほしい。

2009年06月08日

第八講お題

僕は建築の中に人間の記憶にかかわる何かが挿入されるだろうと思っている。しかしそれは見た人が何かを連想したり想像したりするような何かではないと思う。そういうことを意図的にできるような気がしない。それはたぶん意図的にできるようなことではないのだと思う。その記憶はたぶんもっともっと根源的な生まれる前に授かるような人間としての記憶である。だからそれは恐れとか笑いとか悲しみのようなものかもしれない。
そこで皆に問いたい。これはあくまで僕の記憶と建築設計の関係に対する期待なのだが、君たちは設計の中に記憶にかかわる何かを挿入することが可能だと思うか?そしてそれはどのようなことだろうか?僕の考えに左右される必要はない。今日の話で出てきた観念連合に基づく考えでもいいと思う。独創的な考えを提示してほしい。

2009年05月25日

第七講お題

本日のお題は歴史である。講義の中でも言ったことだが、歴史を建物の中に取り込むには様々なレベルがある。そのレベルはおそらく抽象具象という軸の中で語られるものと思う。つまりその場所の歴史的な物理的環境を模倣するというような具象的方法から、かたやその地域の持つ童話や民謡の構成(3部形式が多いとかリズムが4分の7拍子であるとか)そうした特徴を建築の中に取り込むというようなきわめて抽象的なものまである。さてここで問う。君が善光寺表参道に何かを設計する場合、そこの歴史をどのように取り込むだろうか?ビルディングタイプは自由である。歴史を取り込む方法を提案し、その方法の妥当性を説明してほしい。
そう言えば次の評者は誰だっけ?田中

2009年05月24日

キーファーはラトゥーレットに何を見たか?

アンゼルム・キーファーというアーティストがいる。現代世界1と言われるドイツの巨匠である。2004年に彼はとんでもない作品を発表した。7つの天の宮殿というタイトル。コンクリートの断片を積み上げたもので一つの塔の重さが約90トンあるそうである。この塔がどのような観念で作られたかはここでは問わない。問題はキーファーがこれを作る上で、ル・コルビュジエのラトゥーレットに大きな影響を受けたという事実である。

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キーファーはこう言う「それ(ラ・トゥーレット)は私(キーファー)にとって非常に刺激的な建築で会った。というのは非常に単純な物質、近代的な物質が精神的な空間を作りだすのに用いられていたからである。偉大な宗教と偉大な建築は、砂のように、時間の断片である。ル・コルビュジエは砂を精神的な空間を構築するために使っている。私はコンクリートの精神性を発見したのだ。コンクリートは象徴を鋳造するために大地をつかうのである。想像的で、精神的な世界のシンボルである。彼は「天」を地上に創りだそうと試みていた」

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さてこのキーファーの一連の思考の流れについて多木浩二はこう言う。「ル・コルビュジエは、キーファーほど象徴的な次元で思考していたのではないし、コンクリートを象徴的に『砂』と考えていたわけではない。しかしル・コルブュジエの建築そのものが、ル・コルブュジエとは全く異質な一人の芸術家を生み出すことになった。」
(以上多木浩二『表象の多面体』青土社2009から抜粋)
さて話は長くなったが、私なりに自分の問いへの答えを記すなら、僕は建築の形の向こうに設計者の観念を読むことはできないと思っている。それは僕の観念であり設計者のそれではない。しかしそれは期せずして設計者が持っていたものと合致することもあるかもしれない。しかし合致したから良いわけではないし、合致しなくともこのキーファーの例が示す通り、一つの芸術を生み出すほどの力を与える源なりうるのである。一方設計者は形の向こうに観念を作ることができるかと言えば、それは観念なしには作りえないと言わざるを得ない。観念なしに形を作れる人がいればそれはかなりの造形の天才である。しかしそう言う人はめったにいない。
さてそんな気持ちでみんなの意見を読んでみた。そして私なりに(佐々木君ではないが、極めて主観的に、というのは上記僕の意見が正しいという確証はないから)選ぶなら、やはり藤岡くんのコメントだと思う。上記僕の気持を明快に筋を通して語ってくれた。
さて今週はOB諸君の意見が寄せられていない。研究生の武智くん。これは授業の一環だからサボらないように。それから平岩。今まで名前をあげなかったのに他意はない。ぜひコメントを寄せてほしい。

2009年05月18日

第五講お題

本日のテーマはformである。formには二つの意味が備わっているのがポイントだった。古来プラトンが定義した精神で感じ取るイデアの如きも観念。そして一般に言われる目に見える形状である。さて講義の時に僕は何度か形の向こう側にある何かを感じ取ることは難しいと言った。だから僕は建築のタイトルには常に形に表れ読み取れることをタイトルにしている。たとえば連窓の家とか大小の窓とかである。そこに形而上学的なタイトルをつけるのは嫌だし、わけありの想像を掻き立てるようなタイトルもつけない。しかしこうしたストイックな(僕としては)タイトルの裏側には実は形の向こう側にある観念を希求しているのでありそれをもしかしたら読みとる人がいるのではないかと期待もしている。そこで君たちに問う。君は建築の形の向こうに設計者の観念を読みとることができると思うかあるいは出来るべきだと思うか。また形の向こうに観念を作り上げることができると思うかあるいは作り上げられるべきだと思うか?そしてyesでもnoでもそれはどのような理由からか事例も含め論理的に展開して欲しい。佐々木君鋭い評を期待する。

2009年05月12日

第四講お題

本日のテーマはフレキシビリティ。今日の講義で一番大事な人は最後に登場したルフェーブルそして一番大事な概念はデテゥルヌマン「流用」である。そこで君たちの想像力を試そう。今君たちの周辺にある建物で機能が古くなりすぎたと思われる建物を一個あげてそれをどういう用途に変えたいかを述べて欲しい。それはしかし単純に子供のわがままのようなものではダメである。新たな機能がもとの建物の建築的特質を十分に活用できるような提案をして欲しい。それでは皆さん金曜日夜12時までに。小沢くん評をよろしく。

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