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第12講お題

建築が生まれた時から構造はあったのだが、「構造」という言葉が使われた(その要素を自覚的に認識し始めた)のは近代以降であった。そしてその契機は生物学にあったというのが今日の話しのスタートである。そして現代の建築家は構造を見せるか隠すか、あるいはそうした力の流れの整合性をよしとするかしないか自分の考えを申し上げた。ところで君達はこうした構造が露出することをよしとするのかしないのか?構造を建築の意匠としてどう考えるのか論じて欲しい。

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コメント (15)

坂牛研究室 09ta327c 立野駿:

現代の建築において「構造」は建築家が設計するにあたっての経緯や意図、ダイヤグラムを語る材料になっていると感じる。実は構造であるのに構造と思わせない建築も増えていると思う。建築を勉強していてもこれが構造か構造でないのかわからないものが多くなってきた。しかしながらメディアによってそれがが構造であることということが報じられればそれは構造になる。メディアによって見方も変わるのである。上記したように構造が露出するということは善し悪しでは語れないと考える。露出することで建築の印象はがらりと変化するがそれが構造であろうが構造でないのかは重要ではないのではないか。しかし構造を隠そうとすることで逆にそれが大きく露出してしまうのであれば、隠す必要はなく露出させてしまえばいいと思う。また現実的に考えると木造建築においては露出させることで構造材がいつも空気に触れている為、古代日本建築の五重塔でなどのように寺建築でも長持ちするというメリットもある。露出すること建物の状態(柱、梁)が観察出来るのだ。個人的に露出することが良いか悪いかは、構造が露出することで安心感をもてさらに隠そうとすることで空間が制御されるのであれば露出することは良いと思う。

柳瀬研究室 09ta338j 原尚平:

僕がまずこのお題を見た時に、構造が露出しているものと構造が隠れているものの双方を思い浮かべてみた。
例えば、木造の住宅でいえば前者が真壁、後者が大壁となる。真壁の住宅ではどことなくフォーマルで和風、それと相対的に大壁の住宅ではカジュアルで洋風な印象を持つ。もちろん壁に柱が見えているか見えていないかのみでその建物の印象が決まるわけではなく、素材やその他の様式などを総合して建物の印象が形成されていく。しかし構造が見えているか見えていないかというのも建物の印象を決める一つの要因となる。
また、オフィスビルで構造が露出したもの、隠れているものの印象を考える。前者は凹凸が多く、ごてごてといった印象や立野くんが言うように安心感をもったりする。後者ではガラスや壁で構成された立面からのっぺりとした印象を持つ。このビルの場合ももちろん構造の見えのみで印象が決まるわけではないが、印象を決める一つの要因となっている。
つまり、構造を見せることを良しとするかしないかは、その建物をどういう印象を持たせたいかによって変わるのではないかと考える。

坂牛研究室 09ta310j 加藤光:

構造を露出させ、しかもそれを意匠として計画することは、建築の意匠にとって有意義なものであると思う。
この「構造を露出させ意匠とする設計行為」における意義として、大きく2つに分けられると考える。1つは、構造自体を特徴的なものとし、それを意匠として用いること。もう1つは、構造を露出することにより、その建物全体の安全性を視覚的に示すことである。そして、これらは、相反するものであると考えられ、前者は視覚的に安全性を示すのではなく、特徴的な形状(細い・斜め・曲線)が際立つ。それに対し、後者は視覚的に安全性を示し、合理的で強固な形状が際立っている。
また、建物全体における構造の意匠性を考えると、圧倒的に前者の方が、設計者の意図が大きく反映された、意匠の中心として位置づけることができる。
したがって、今回は、デザインの可能性としては、比較的ネガティブに位置づけられるだろう後者の「構造を露出させ意匠とする設計行為」について論じたい。
視覚的に安全性を示す構造として、最近目立つものは、耐震補強の構造(特にブレース)である。これらは、建物のファサードに現れることも多く、しっかりとその建物の安全性を視覚的に提供してくれてはいるが、その反面、デザイン的に醜いものであると感じる。規格化され、必要以上の太さ、規模の耐震補強は、対象建物のデザインを大きく乱している。
そこで、構造を建築の意匠として考えていく上で、耐震補強の構造をデザインすることが、いま必要なのではないだろうか。建築の価値としての耐震性能に関し、安全性を視覚的に示すことは、その建物にとって有意義なことであるし、それに加え、耐震補強のデザインを、建物自体のデザインとして表現することができれば、それは現代の新たなる建築デザインになると思う。

土本研究室 09TA345A 美作羽衣:

 わたしは、構造が露出することをよしとする。
 構造の露出と聞いて、わたしは原くんが例に挙げた真壁や、打ちっぱなしのコンクリートの部屋や、吹き抜け空間に見える梁を想像した。これらは、構造の一部を意図的に露出させることで、意匠の一部として利用している。
 また、バーやライブハウスなどには、構造はもちろん、配線・配管すら全て露出しているという場合も見られる。そういった場所に行くと、いつもわたしは空間が非日常なものになるように感じる。(ライブハウスに関しては機能的な問題もあって構造が露出しているのではないかとも考えられるが。)つまり、バーやライブハウスは非日常的な雰囲気をだす為に、意匠の一環として構造を露出させているのではないかと思う。
 これらから、わたしは構造が意匠の一環なのではないかと思う。しかし、今までの例を見る限りでは、意匠に構造を取り込むには、構造の一部を露出させるか、全てを露出させるかという2択しかない。そこには、根本的に意匠と構造の分断が見られると思う。
 イエール大学アートギャラリーの三角形の連続する天井が意匠と構造が一体となっているように、構造全体を意匠に取り込むことができるなら、それが一番望ましいのではないかと思う。

坂牛研究室 09ta343e 丸山日惠 :

 構造が露出することをよしとする。
 建築の構造とは、その建物を成り立たせるための仕組みであるが、意匠としての表現方法の1つと捉えることが可能であると思う。力の流れを視覚化させ、支えの部分を強調して見せることで、その建物の存在、実体感を描写することができる。
 また、当然あるはずである力の流れに矛盾を見せると(例えば、一見支えられないだろうと見られる細い柱など)、それを見た人に驚きを与え、幻想的な感覚をもたらす。
 普段何気なく過ごしている中で、気に留めなかった力に焦点を向けさせること、または力の流れは可視であるが、どこか不整合さがあることによって意識を構造に向けさせること。これらはどちらも意識上に構造を露出させることだと思う。これにより、建物の特徴として表すことが可能となる。よって、様々な方法があると思うが、構造を露出することには意味があり、いいことだと思う。

坂牛研究室 09TA326E 竹森恒平:

 構造を露出することは簡素な構成で豊かな空間を作る手段となる。

 構造を隠すことは、意匠と構造を切り離すことである。しかし、隠すという操作はその本質から、構成上の表と裏を作り出すことである。構造と意匠のそれぞれに部材を用いることでそれぞれの表現の自由度は高くなるが、2つの部材の関係により建築の構成は複雑化する。

 一方、構造を露出させるということは、意匠と構造を一緒くたに扱うことである。つまり一つの部材で構造と意匠をかねることである。部材は構造と意匠の両面からの要求、制約を受けるが、出来上がる建築の構成には表裏がなく、単純なものとなる。このような構成は「簡素」という価値に結びつくのではないだろうか。

 後者のような例を1つ挙げるならば、コンテンポラリーズの「壁柱」がある。コンテンポラリーズは壁柱による簡素な構成から裏表のない豊かな空間を作り出している。この「壁柱」の空間構成は比較的多くの制約を受け、複雑な行程を経るが、出来上がったものは簡素でありながらも構造、意匠の両面の要求を満たすといえる。1つの空間を表現するうえで、意匠を構造から切り離すことは、多くの場合に有効である。しかし、その空間が構造と意匠をともなって表現される場合、そこには簡素さ、わかりやすさという価値が付加されるのではないだろうか。

土本研究室 09TA325G 髙橋 翔虎:

 私は、建築において構造が露出することをよしとしています。なぜなら、建築の構造には、その建築がもつ力強さのようなものを感じるからです。
 その顕著な例として、東京タワーをあげます。東京タワーは、展望室となっている部分を除き、その構造が露出しています。人でいえば、心臓と骨にあたるでしょう。しかしながら、東京タワーは、50年ものあいだ、東京のシンボルとして存在してきました。それは、333mという高さのほか、構造により表現された建築美があったからではないだろうか。このような、とりわけ大規模建造物においては、構造が建築の意匠に直結しやすいように感じます。高架橋、橋、塔など、そのほとんどが皮膚をもたず、骨のみである。しかし、その骨のみというシンプルな意匠が建築に美という観念をもたせ、かつ建築がもつ力強さを表現しているのだと感じます。
 また、それは、山小屋、電柱などにより、比較的小規模な建築においても表現されているように感じます。石室とよばれる山小屋では、壁がすべて石でできており、その上に小屋組がのせられているだけの、非常にシンプルな意匠である。この構造は、山という過酷な環境が生んだ力強さを含んでいます。また、電柱は、純粋な柱(構造)のみで成り立っています。この構造は、人間に害のない高い位置に電線を通すために、真っ直ぐに空へとのびた建築になったのだと考えられますが、その姿には力強さと感じます。
 つまり、建築の構造には、その建築がおかれた環境、その建築の意義といったさまざまなデータが含まれているように感じます。だからこそ、建築の構造にはその建築のデータが表現されると肝に銘じ、シンプルで美しく、意匠的につくりあげるべきだと考えている。

 最後に個人的な意見ですが、和風建築は大壁より真壁がいいと感じます。

坂牛研究室 09TA340A 藤岡佑介:

建築のシステムである構造体、および設備は露出しているべきである。

一般的に構造とか設備と言った建築のシステムは、隠ぺいされるのが普通である。建築の規模に比例し、システムは複雑化し、それらは目につかないふところやバックヤード、地下などに隠ぺいされる。規模の小さい住宅レベルにおいても、部分的に柱などが見えていることはあっても、梁や根太などは一般的には目につかない。

構造が見えないことは、住宅規模においては深刻な問題のように思う。それらが目には見えないため、住んでいる人が自分の家の状態を把握していないなんてことはざらにある。知らない間に柱の根元が腐ってました、なんて話もありえてしまう。それは建築のシステム、つまり構造とか設備が目には見えないことによる、ブラックボックス化によって引き起こされた結果であろう。この建築のブラックボックス化は、まさに「住むこと」と「建てること」を乖離なのではないか。

一方で、見え方とかデザインとかに関して言えば、個人的には必ずしも構造が見えている必要はないと思う。それは必ずしも、良い建築=構造が露出しているとは言えないから。住宅規模の建築においては特にそうである。ただし、空間を構成する一要素として考慮しなければならないのは当然のことであるだろう。
しかしそれ以上に、「住むこと」と「建てること」の関係を無視すべきではなく、見え方とかデザインとかがどうこう以前の問題であるように思う。

よって構造が露出することは、住み手が家を把握するために必須である。住み手が家を把握することは、つまり住み手と家が共に生きられる関係にあるという事につながるのだと考える。

土本研究室 09TA347H 脇坂日南子:

 まず、構造とは、壁、柱、梁、床のことを指すと思うが、ここでそのように定義すると建物全てが構造であるという答えになってしまうので、ここでの構造は、建物が成り立たつために最小限必要な構造を指すとします。
 私は構造が露出することをよしとします。
 構造というのは、その建物に必要なものであり、必然的に生まれるものであると考えます。最低限必要なものにデザインがプラスされたとき、建築の意匠が生まれるのではないかと思います。けれど私は、個人的な考えですが、構造とデザインの関係は、お互いに対立しているような印象をもっています。デザインを優先すると構造の造りを複雑にしなければならない、構造を優先するとデザインを変えなければならないときがあります。その中で構造を露出した建築は、構造とデザインが歩み寄っているという印象を受けます。ただし、コスト面や手間を考えて無意味に構造を露出したものは除いて考えます。構造をデザインの一部とすることができればその構造は意匠として成立するのだと考えます。

浅野研究室 09TA307J 小澤明也:

私は構造が露出することを望む。
それは、私たちが知らない構造の世界を垣間見させてくれるからである。普段から建築に関っていない限り、建築の構造について考えることは少ないであろう。建築の構造は存在していることが当たり前で、プラスターボードの向こう側がどうなっているかなど気にしない。おそらく、構造についてそんなに知りたいと思うことがないだろうし、知り得る可能性は低いはずである。
なんでも自明になればよいかと言うとそうではないが、建築に関ったものとして、「建築はどのように出来ているか」という根源的な問いを生み出し、建築に思いをよせる確立を1%あげるためにも構造が露出していることを望む。

坂牛研究室 09TA308G 香川翔勲:

無理に構造を隠そうとする必要は無いが、意図して構造を露出する必要も無いと考えます。

そこでまず、恐竜の再現イメージを想像してほしい。化石として発掘された骨格に、筋肉、皮膚…と色々な要素がくっついていく映像を一度くらいは見たことがあるんではないでしょうか?そうすると、骨格からでは全く予想がつかない、恐竜のイメージが表れてきます。自分は、そこから骨格には無いカッコよさを感じました。けれど骨格が全体を構成する重要な要素となっていることにも気付かされました。また、この骨格にくっついていく筋肉や皮膚などは、骨格を成立させるために作られるのでは無く、動くためや、外気に適応する役割を果たしていると思います。

建物の方に話を戻します。恐竜の骨格が建築の構造にあたり、筋肉や皮膚などは設備や外装材などにあたると思います。構造と設備や外装材の関係が、骨格と筋肉や皮膚ほど密接な関係を持たなくても良いのが、建物と恐竜の大きな違いです。

しかし、自分は全体を構成する重要な要素となる構造と、他の様々な要素が密接な関係を持ち建物が作られていくことが重要であると思います。それは、構造自体をデザインするのか、しないのか。露出させるか、させないのかが重要ではなく、構造を基礎とし他の様々な要素との関係をデザインするべきではないかと考えました。つまり自分は、構造が露出しても、しなくともどちらでも良いと思っています。

最後に一つ引用を。ルイス・カーンは、「構造は光の賦与者である。」と述べています。これは構造と他の要素との関係を重視している良い例であり、またこの考えに可能性を感じました。

土本研究室 09TA323A 鈴木久雄:

 どうも。土本研究室の鈴木です。
 先日の授業には出席できなかったにも関わらず評価させていただくのは誠に申し訳ないようにも感じますが、精一杯やらせていただきますのでどうかよろしく。
なお、評価は僕の好みで判断させていただくので、特に気にする必要はありません。
 まず、僕の考えを述べさせていただきます。僕がまず思い浮かべる構造とは、柱や壁など、地面に対して垂直なものばかりです。それらは、重力がかかる向きと平行に通り、その力に耐えられるようにたっています。その姿からは、建物の合理性や、力強さ、建物としての存在感を感じることができます。したがって構造を露出させることをよしとします。

 全体的に皆さんのコメントを読ませてもらうと、構造を露出させることによって、安心感、力強さ、存在感、非日常など、建物の印象が様々でした。僕も先ほど述べたように、構造とは、重力に関係があるのではないかと考えます。その理にかなった姿が長年にわたって親しまれてきた東京タワーの話は、高橋君のコメントから納得でき、興味深いと感じました。

 しかし、構造を考える以前に着目したのが藤岡君や香川君です。恐竜の骨格に筋肉や皮膚が切り離せない存在であるように、建物においても構造は、設備や外装材とは切り離せないとした香川君のコメントも興味深いですが、実際に建物を利用する人と家との関係に着目した藤岡君のコメントには感銘しました。

ここで、今回の鈴木賞を発表します。たてものの構造が力強さの象徴であるとし、またその構造がその建築がおかれた環境や建築的意義を表すとした高橋君を最優秀賞、また、構造の意匠を考える以前に建物の利用者と家との共存について住宅に着目した藤岡君を優秀賞とします。並びに、今まで話にはあがりませんでしたが、今後必要となってくると思われる耐震補強のデザインに着目した加藤君のコメントも現実味があり、可能性があることを評価し、優秀賞とします。

以上鈴木による評価でした。皆さん考えることが十人十色ですね。楽しく読ませてもらいました。

09TA328A 田中邦幸:

 構造は空間を作る上での最低必要なものである。構造は露出するかしないか、どちらがいいかは、やはり決められないと考える。
 ただ、どんな建物でも柱か壁が表れてくる。直接的に力を負担していないにせよ、柱と壁は建物を支えていると人に感じさせる。つまり、構造を喚起させるものは必然的に露出してしまう。それならば露出したときにどのような空間ができるかを考えるべきである。
 いままでで、構造で衝撃を受けたものは、メジャーなものであるが仙台メディアテークである。よく知られているように構造は柱を進化させたチューブである。柱の中に入ったような感覚を得るあのチューブは、一目見ただけでは構造なのかは判断しづらい。しかし、それ以上にそのチューブがもたらすものは数多くある。屋上から注がれる自然光であったり、夜のライトアップされたときの幻想的な雰囲気であったり、構造以上の効果をチューブは含んでいる。
 構造を露出する場には、単なる構造として見せるのではなく、何か空間をつくるプラスアルファを付け足すことに新たな可能性があるのではないだろうか。


投稿が大幅に遅れてすみません。

武智靖博:

構造です。

みなさんのコメントを読ませてもらって、最近個人的にも考えていることがあったので、今回は僕もコメントを書かせてもらおうと思います。


構造とは水の形態のようなものである。そして構造が露出するしないに関わらず、力の流れが見えなくなることを好む。
本来構造とは意匠を制約するものではない。そして構造はとても自由であるが、それは経済性による場合においてのみ意匠をしばるものとなると考えている。

伊東豊雄の「仙台メディアテーク」が竣工してからおよそ10年がすぎた。伊東はこのとき構造体が、単に建築の骨であることから解放したのだと思う。それからは伊東自身もそうであるが、建築立面にカーテンウォールでもなく、壁でも柱でもない、それらを兼ね備えた表現が多く出現してきた(もちろんそれ以外の解放の仕方があるが)。そして構造家の新谷眞人が言うように、「コンピューター・テクノロジーによって、柱、梁、ブレース、壁といった構造形式は解体された」(伊東、建築|新しいリアル、2006、p37)のである。

ところで構造家であり、思想家でもあるセシル・バルモンドが伊東豊雄の建築形態の評を述べている。セシルは言う「多義性は常に存在する。ある瞬間の不動性は、別の視点に立つと推測的な不確実性でしかない」。この言葉は2006年のものであり、伊東の建築は仙台のときよりも動的な空間を目指し、それに並走するように構造もさらに自由になっている。そう考えるとこの言葉を構造に接続しても妥当だと思われる。そして僕の構造に対する感覚と非常に近似している、というか言い当ててくれているような気がした。

セシルの言葉を水の形態に例えてみよう。
水には定まった形態はない、またはどのような形態にでもなり得ると言うことができる。大地に延々と水が流れている様を人は川と呼びます。しかし、どの瞬間でも同じ表情はなく、水は流れ、風や川底の石の形態に呼応しながら川になる。水に形態が与えられたときにそれは川となり湖、池、滝、海となる。建築も同様なことが言えるのではないだろうか。自由である構造に与条件となる定点があらわれたときに、建築となるような、不確実性。それは設計者が抱えることで、使用者の方に自由度が現れないだろうか、と勝手に期待している。

牛:

僕は今では構造を提示することをかなり重要に考えるようになってきた。その理由は構造が「よい」建築を作るうえで重要であるからということではなく、建築には余りに多くの要素がありすぎて、そういうものをどんどん減らしていくと必然的に構造が見えてくるからという消極的理由である。これは2年生のデザイン論の時に説明したスケルトンとブラックボックスの話に通じる。スケルトンとはリテラルに外装が透明ということだけではなく、その結果として構造や設備が見えてくることだと言った。そしてそのことはフランプトンの言う結構にも通ずることである。(覚えている人は少ないかもしれないが、坂牛研の人は拙著『建築の規則』のゼミで再読したから覚えているだろう)。さてそうなるとこの見える構造にどういう思いを託すかということになる。
建物の不要な要素を減らすと構造が見えてくるのだが見える以上それには責任を持たねばならない。いや、「見えてくるから何とかしよう」という程度の消極的な姿勢だともはや手遅れとなる。見せざるを得ない以上最初からそこにある思いを入れて設計しないとだめなのである。そうするとやはり構造が建築をある部分でリードしていくような骨格となってもらうしかないのだろうと思う。しかし骨格とは言っても力が伝わっていることが視覚かされる必要はない。その美しさのようなものを求めると構造表現主義になってしまう。だからそこで期待することは現われる壁や柱がその建築の中で起こるであろう様々なアクティビティのようなものに密接にかかわるあるいはそのアクティビティをある程度無意識のうちにコントロールするそうした存在としてあるようにしてやること。そしてそのことがその建築内部の無意識的な視覚性に繋がって行くような状態を作ること。そうしたことが必要なのだろうと思っている。
なんだか僕自身がここ数年意識するようになった問題であるのと、現在設計中の建物中で考えていることなのでまだまとまりがないけれど、、、、、
そうした僕の気持ちと最もあっているのは(その意味でそれが論としてすぐれているという意味ではないけれど)脇坂さん、香川君、藤岡君あたりのコメントかな?
じる

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2009年07月06日 19:59に投稿されたエントリーのページです。

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