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空間を定義せよ。その定義を使って君の理想の建築を説明せよ。
投稿者: ofda 日時: 2009年06月29日 21:30 | パーマリンク
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自分は空間とは重力のようなものだと思っている。
重力はどんなものにも備わっていて、大きさではなく重さによって強さが変わる。つまり、ものの質(密度)で強さが変わる。アートがあることでそこの場所が歪み、人に影響を与えるように、空間とはものの存在で、歪みができたときにあらわれる。 今、自分たちは、地球の重力の中で生きている。しかし、あまり意識せずに重力を当然のこととして認識している。自分はそんな意識はあまりされないが人々に影響を与えていて、意識すれば認識されるような空間を作りたいと思っている。引き込まれたまま出て行きたくなくなるような空間、その場に引き寄せられるのが心地いい空間。
投稿者: 09TA328A 田中邦幸 | 2009年07月02日 14:25
日時: 2009年07月02日 14:25
空間についての定義を教科書に習うとすれば、「身体の拡張としての空間」と考える。なぜなら、空間は私たちの行為や感覚によって形成され、また空間によって私たちの行為や感覚が拡張されるからだ。 例えば、自動車という空間を考える。自動車を運転している際に、私たちは地面のでこぼこや、道の幅を身体に近い感覚で感じることができる。実際に私たちは接触していないが、自動車が接触した場合、自分自身が接触してしまった感覚を得る。これは、自動車という空間によって身体が拡張されているのである。 次に、私の理想とする建築について述べる。それは、人のふるまいによってその建築が活性化され、建築もまた人にふるまいを促していく建築である。そして、その建築の構成要素には身体の拡張としての空間がかかせない。身体が拡張されている状態にあればこそ、その理想の建築での人のふるまいは建築と同一化する。 それは、自動車を運転しているドライバーのように。
投稿者: 浅野研究室 09TA307J 小澤明也 | 2009年07月02日 19:11
日時: 2009年07月02日 19:11
現代における空間とは、その空間の持つ性質、つまり場所性を強調するための記号であると思う。 どのようなスケールの空間、たとえ囲われていない空間であっても、その場所のボリュームを空間と言ってしまえば空間であり、即ちそれは、空間が記号と化してしまったことを示しているのではないだろうか。 さらに、この記号としての空間を考察すると、場所性を示すが為に、空間は~な空間というように修飾されていると考えられる。これは、歴史的な空間、快適な空間、明るい空間、四角い空間、終いには、囲われた空間というように、以前の空間の定義(空間=囲われた場)を「空間」に対して重ねる場合も存在している。また、たとえ空間が「空間」のみで記されている場合でも、実際にはその「空間」は何かしらの性質により修飾される。これにより、空間はその場所の性質を示すものとして成立しており、もし本当の意味で空間が「空間」のみで記されるとき、そこには知覚の対象がなにもなく、無限に広がる“無”の場所となってしまうと考えられる。 そこで、今回私の理想の建築とは、この「空間」のみで記される空間をもつ建築とする。ただ、厳密にいえば、この場合、無限の場所となってしまうため、究極的にこの状態に近いものを指す。それは、空間を空間として認識できず、ただ無限に感じられる場所である。そして、このような“無”になれる場所、「空間」は非日常と直接的につながると考えられ、住宅や、オフィスなど日常性の強い建築にあるべきだろうと考える。
投稿者: 坂牛研究室 09ta310j 加藤光 | 2009年07月02日 20:14
日時: 2009年07月02日 20:14
空間とは記憶である。
人が空間を経験し、記憶に残った場合、そこは空間として成り立つ。逆を言えば、経験していない空間や、記憶に残らなかった空間はその人にとってその空間は成立していない。つまり、空間とは個々で異なるものである。
第八講で僕は空間とは過去であると論じた。では現在体験している空間は空間ではないのか?そう思った時点でそれは既に過去であり、新たな記憶である。
さらに、空間の性格も人それぞれである。同じ空間を体験してもある人は「格式ばっていて緊張する」と感じる人もいれば、「どことなく懐かしくて落ち着く」と感じる人もいる。また、そこでの行為や出来事なども空間の性格となる。そういった性格が強ければ強いほど人の記憶に残り続けるのかもしれない。
以上より、僕の考える理想の建築は記憶に残り続ける建築である。それをつくるためには空間と機能を一対一の絶対的関係として捉えるのではなく、様々な性格をもつ空間で構成する必要があるのかもしれない。リビングや寝室を用意するのではなく、「開放的な空間」もあれば、「閉塞的な空間」もあるといったように。そして気分が晴れている時は開放的な空間でみんなで食事をし、悩みがある時は閉塞的な空間でひたすら悩み続ける。そうすることで、空間の性格が強くなる。また、第八講で論じた、人と人の距離を形成する仕切り方も空間の性格を決める一つの要因である。
そのように空間をつくることで、記憶に残り続け、何十年か経った時にも人の記憶に存在する空間が僕の理想である。
投稿者: 柳瀬研究室 09ta338j 原尚平 | 2009年07月03日 12:14
日時: 2009年07月03日 12:14
空間とは何か? 空間が有限であるとすると、その外はどうなっているのか?という疑問が生じる。空間が無限であるとすると、無限の空間とはどういうことか?無限の空間がいつ、どのようにしてできたのか?無限の空間ができる前はどうだったのか?という疑問が生じてしまう。どちらも、空間の説明はできないと思う。うまく説明ができないのだが、空間と認識しているものが、実は別の次元の影に過ぎないのではないのか、という感じがする。まず空間があって、そのなかで膨らんでいっているといった経験識思考から抜け出さなければならない。要するに虚無に空間が作られていっていると考えられると思う。 ここで私なりの空間の定義をする。空間とは「縄張り(テリトリー)」である。あるところに人がいればそこは空間になるし、自分の空間を作っていると考える。人がいて初めて空間ということを認識できるのではないか?それは物質(人含む)の位置関係でもあると思う。そうなると空間とはどこでも空間になり、すべてが空間とも呼べる。 そこで理想の建築といわれると戸惑うのだが、縄張りは人の感性でもあるので自分が無意識に気持ちよい、心地よいと思う建築になると考える。私にとって理想の建築とは出会いたくないものであり、出会ってしまったら恐怖を感じる気がする。しかしやはり実家は心地よい建築であり、落ち着く。そこには自分の縄張りがあり、建物以外の場所にもなにか自分の縄張りがある。現時点ではこれが僕の理想の建築である。
投稿者: 坂牛研究室 09ta327c 立野駿 | 2009年07月03日 17:36
日時: 2009年07月03日 17:36
空間とは、「何か」がある場所のことであると定義する。 外であっても、椅子を置くだけでも空間であると考えるし、室内で、なにもない空っぽの場所であっても、光や壁、天井などがある。そのような場所も空間であると考える。 僕の理想の建築は、設計者が、施主が提案するその「何か」を読み取って、共有することによって出来上がった建築である。しかし施主には建築を提案する力はないため、設計者がほとんど考えることになるかもしれない。したがって大切なのは、その場で設計者側が提案する「何か」を施主にいかに的確に伝えられるかである。そこで必要になるのは、その場で空間を表した手書きの絵である。その場で施主と共有できるものは紙くらいしかない。「何か」をインスピレーションで手元の紙上に表すことができれば、必要な「何か」を忘れずに表すことができるし、時間も削減し、施主と具体的な「何か」を共有することができる。その絵が、段階を踏んで、パース、模型となって建築が出来上がっていく。その手順で出来上がった建築が僕の理想の建築である。
投稿者: 土本研究室 09ta323a 鈴木久雄 | 2009年07月03日 17:59
日時: 2009年07月03日 17:59
自分の空間の定義もSemperと同じく「空間とは囲われた場」である。 ここではもう少し詳しく「空間とは周囲に意識させるものに囲われた場」と定義したい。 意識するものは、目に見える物でも、音でも、温度でも、匂いでも、何でも良い。
それでは、自分の理想の建築を述べたい。 一つの線で描いた円(○←こんなん)を思い描いて欲しい。ここでは線が意識させるものにあたる。しかし自分の理想の建築はそうでは無い。自分の理想の建築は、塗られた円(●←こんなん)である。線が意識させるものでは無く、何かが充満することで意識させるもができ、それに囲われているようなイメージである。これが難しいのであれば○の線から、少しでも意識するものがにじみ出ている状態の建築を作りたいと思う。
投稿者: 坂牛研究室 09TA308G 香川翔勲 | 2009年07月03日 18:28
日時: 2009年07月03日 18:28
空間とは、意識のおよぶ範囲のことである、と私は考える。
Semperが定義したよう、「空間とは囲われた場」であるのだろう。しかし、私はこれだけではないように感じた。なぜなら、地面に対して垂直方向にのびたものが何もない、砂漠のような場に空間は存在しないのか、という問題が生じたからである。否、砂漠も立派な空間である。「何もない」という空間である。つまり、自分の意識のなかには、砂以外何も存在しない、と認識したことから生まれた空間の発想なのではないだろうか。先に述べた「囲われた場」というのも、結局、私たちを囲うものによって、より明確に場を認識させられているだけなのではないだろうか。私たちは、壁や建物に囲まれた際、ふつうその奥にまでは意識がいかない。だからこそSemperは、「空間とは囲われた場」であると述べたのかもしれない。
以上をふまえ、私の理想の建築とは、観覧車である。観覧車には大きくわけて2つの空間がある。観覧車の内と外である。前者では同乗した人が意識され、後者ではほかの観覧車、その内にいる人びと、ほかの遊具、それらの遊具で遊ぶ人びと・・・など、数多くのものを認識することができる。また、くるくると回ることによって、さまざまな空間を体感できる。一度に数多くのものが意識され、そのバリエーションが豊富な観覧車は、空間を味わう最適の建築であろう。カップルのデートでは意味ないですけどね(笑)
投稿者: 土本研究室 09TA325G 髙橋 翔虎 | 2009年07月03日 20:00
日時: 2009年07月03日 20:00
空間とは、意味が与えられた囲まれた場所のことである。また、それを生かした理想の建築とは、入るだけでその空間の意味が伝わってくる建築である。 空間といえば、私は壁や収納などに囲まれた、場所のことであると考える。また、その囲まれた場所には「居室」や「寝室」など、様々な意味が付加されている。その意味は、空間内に配された家具などによって付加することができる。また、空間を囲むもの(例えば壁)のテクスチャーや、囲まれることによってつくられる空間の形によっても空間の意味を付加することができると思う。例えば,ゴシック建築の教会の内部空間は、上に高くのびた形になっており、天への指向性を感じることができ、キリスト教の教えを体現しているようにみえる。また、壁のテクスチャーは、コンクリートか、漆喰か、クロス仕上げかのよって随分空間に受ける印象は違うと思う。 それらの、空間に配される物・空間の形・囲むもののテクスチャーを総合的に考慮することで、空間が自らの意味を啓示する建築をつくることができるのではと思う。ちなみに、桂離宮の月波楼なんかはその一つではないかと個人的に感じている。
投稿者: 土本研究室 09TA345A 美作羽衣 | 2009年07月03日 20:11
日時: 2009年07月03日 20:11
空間とは「境目のある場」であると考えます。 空間を生む境目には、建築的なものとそれ以外のものがあると思います。 建築的な境目は、壁や天井、床、柱などを指します。これらによって、囲まれたり、区切られたりした空間が生まれます。それ以外のものとして、雰囲気や光、人、音をあげます。この境目は、建築的な境目に比べて明確には目の前に現れませんが、感じとることはできると思います。人が居る場所といない場所、暖かい場所と寒い場所など、境目が発生し、そこに空間が生まれると考えます。 また、建築的な境目のなかにそれ以外の境目が発生することもあります。同じ部屋の中にいても、光の集る所や人が大勢いる所、何も置かれていない所など、同じ部屋という空間のなかにさらに様々な空間が生まれています。私たちが生活をしている場所のなかで、境目のない場所はないのではないかと考えます。何かしらのものによって区切られ、境目ができ、そこに空間が生まれると考えます。 そこで、それを踏まえた理想の建築ですが、私は、建築的な境目によって生まれた空間のなかに、様々な空間が生まれる建築を理想とします。建築的な境目をつくる時に、そのなかに様々な空間が生まれる余地を残すことによって、さらなる空間が生まれることが期待できると考えます。
投稿者: 土本研究室 09TA347H 脇坂日南子 | 2009年07月03日 21:20
日時: 2009年07月03日 21:20
空間とは、人間がこの広い世界から差異を見いだし特別な価値を与えることで認識されるものだと定義する。そのため空間とは人間に内在するものだと考えられる。 例えば、ひとつの囲まれた部屋であっても人によって、認識する空間の質は異なってくる。また、どこからどこまでを一つの空間とするか異なる場合は、一つ一つの空間の大きさや捉える空間の数もかわってくる。これは、空間に与えられた価値が個人によって異なるためであり、それぞれの価値観や空間と接してきた時間が関係すると考えられる。 壁や天井のように囲うものや地面のテクスチャの境界などは空間を認識する際のきっかけでしかない。 このため、人間が空間を認識する際に、建築に必要とされることは、人が空間に価値を見いだし認識するきっかけを与えることだと考える。先程述べたように、時間の経過により空間に価値が付加されるされると考えるなら、人を留めることでそこを価値ある空間と認識させることができるのではないだろうか。 よって自分が考える定義での理想の建築とは、人が長い時間留まり、これを通して価値あるものとして空間を認識することのできる建築である。
投稿者: 柳瀬研究室 09ta342g 細い一宏 | 2009年07月03日 21:42
日時: 2009年07月03日 21:42
空間とは人それぞれが「ここ」と示すところだと思う。 私は空間と言われると具体的なイメージは出来ず、一つの均質な広がりを想像する。しかしそこに人やモノの存在を投入すると、そこにはその人やモノの場所ができる。見える見えないに関係なくその周りには境界が発生し、一つの空間が出来上がる。 空間の知覚とは、人やモノの存在が大きく関わる。それらの存在がそれぞれの空間を作り出していて、相互の関係で新たに空間がつくられる。よって、そこには一つの空間のみが存在するのではなく、認識の違いによって空間は幾重にも重なって存在する。ある教室で「ここ」と指すのは座っている席を表すこともあるし、席周辺である教室の窓側をさすこともあるし、はたまた室全体を指すこともある。この時、空間を分けているものは物質による視覚に代表される五感、感覚によるものが大きい。 しかし、感覚だけでなく経験も関係する。例としてグランドを挙げる。 グランドは(トラックが存在するが)ほぼ均質な空間といえる。しかし、小学校では「短距離走はここでやった」、「ドッヂボールはこの辺でやった」など以前何かを体験した場所は、その時作られた空間をその後も引きずり、空間を私たちの中に作り出している。
つまりいろいろ書きましたが、私の考える空間は、人の認識により何重にも存在し、その時その時で変わりえる居場所であるとあると考える。 そして私の理想の建築は、多様に取り得る空間において、まとまりを保ちつつも異なった居場所を自ら発見、または作り出せるフレキシビリティのある建築である。
投稿者: 丸山日惠 | 2009年07月03日 22:46
日時: 2009年07月03日 22:46
空間と場所を明確にしつつ論を進める。
空間とは、境界に囲まれている空虚である。その際、空間とはニュートラルな存在である。 それに対して場所とは主観的なものである。例えばある部屋の中にデスクがあり、自分はそこで勉強している。その際、自分の意識の中にあるものは、デスクの付近、部屋のごく一部だけである。これはある人の意識、主観によって、空間と言う空虚の中に、場所と言うスポットが生まれている事を示している。つまり空間は、その中で発生しうる場所を内包する存在であると考る。
上で述べた場所は住む人によって発生するものであり、設計者が行えるのは場所を内包する空間を作ることだけである。設計者は直接手を加えることができないのなら、住み手にできるだけ多くの選択肢を残すことが重要であろう。そのために空間は常にニュートラルであるべきである。
しかし、実際には完全なニュートラルとしての空間など存在しない。完全にニュートラルな空間とは結局概念上の話でしかなく、実際に設計していくと、必ず何か消すことができない物体が残るはずである。たとえば柱とか壁とか。そこで設計者は、その残ってしまうものをそのまま残すのではなく、きっかけに変化させることが大切なのではないか。(例えば壁を丸く歪めたり…それによって使用者はそこに座ったりするかもしれない。)ただそのきっかけには、設計者の「こう使ってほしい」とかいう思いは存在せず、ただのきっかけとして存在している。
つまり理想の空間とは、ある境界に囲われたニュートラルな空虚の中に、ポツポツと場所が発生しうるきっかけが落ちている状態だと考える。
投稿者: 09TA340A 藤岡佑介 | 2009年07月03日 22:56
日時: 2009年07月03日 22:56
空間とは何らかの感覚を共有することのできる範囲である。物理的な障害があっても、空間は共有することができる。
例をいくつか挙げる。設計製図第3のコンバージョンの公表会の時に見た映画(?)では、父親と、母親・娘の部屋は壁で隔てられていながらも、お互いの「心」はつながっているようであった。また、住宅を例に挙げると、壁などで部屋の間が隔てられていても家族の「声」が聞こえたり、台所で母親が造っている料理の「匂い」が家じゅうに伝わり、呼んでもいないのに子供が台所に集まってくる。これらは、空間を共有しているためと考えられる。近年では携帯電話の普及は空間の在り方を変えたように思える。遠い所にいても携帯で「声」を伝えることにより、空間を共有できるようになった。最初に挙げた例の場合、共有している感覚は第6感や家族の思い出などという特殊なものだが、このように感覚を共有することができる範囲が空間である。
以上より自分が理想とする建築は感覚を共有できる建築である。住宅であれば先ほど例にあげたようなものであり、学校であれば子ども同士の楽しい雰囲気を伝えることのできる建築。そんな空間を有する建築が、自分の理想である。
投稿者: 柳瀬研究室 09TA319B 佐々木大輔 | 2009年07月03日 23:14
日時: 2009年07月03日 23:14
空間とは、なにも存在しないものと思っている。
だから、卒論のときに、題目に困った。水辺空間としたかったのに、わたしのテーマとする水辺空間には、いろいろな要素が存在したからだ。そもそも水辺空間にはいろいろなものが存在すると思うから、この言葉はわたしにとって謎である。
でもこういうふうに、自分の定義と矛盾する空間はたくさんある。でも、空間とはそういうものと頭の中で思ってしまっているから仕方ないのである。
そしてなにも存在しないものより、いろんなものがあるほうが、わたしの理想の建築である。こどものときから、小屋が増築されていったような建物が好きなのである。
投稿者: 土本研究室 09ta330c 寺田聡子 | 2009年07月03日 23:17
日時: 2009年07月03日 23:17
こんにちは。今回の評者の竹森です。今回の「空間」というテーマの論点としまして、以下の3点、空間の①認識性、②多元性、③重層性、を挙げ、これに即した評を下したいと思います。
まず①に関して、皆さんの総意として空間を「主観的な認識物」として捉えている点が挙げられると思います。これは、人が事物において空間を認識すること、もっと言えば、人は事物を空間として認識すること、といえます。ここで、その空間の外部的、あるいは高次的な存在を指摘した加藤君、立野君の意見にも興味をそそられますが、今回は「主観的な認識物」としての空間についての考察を深めたいと思い、ここを評価の出発点に据えたいと思います。
次に②に関して、①から空間を「主観的な認識物」と捉えるならば、空間とは対象となる事物ごとに異なる様相を持って立ち現れ、また同じ事物においても認識する人ごとに異なった様相を持って立ち現れると考えられます。このような点から、皆さんは事物の様々な局面(精神的・抽象的・物質的等)における様々な空間を見出しているように思います。これらの空間に優劣をつけることはできませんが、今回はお題の趣旨を加味した上で、個人的な意向として、人と事物と建築との関係に直接的に関わる空間を提示した(つまり、事物の中から建築空間を特筆した)意見をクローズアップしたいと思います。
最後に③に関して、建築自身の空間を見ると、建築は巨大な造形物であるため「静的な空間」をその内部と外部に作り出すといえます。そして、そこに人事物が入り込み(=関与し)「動的な空間」が生まれます。すると、私たちの生活はこの静と動、そして動と動の空間の重なりの中で営まれているといえるのではないでしょうか。
以上のような考察から特に③の静(建築)と動(人事物)の空間の重なりについて言及した、脇坂さん、丸山さん、藤岡君をピックアップしたいと思います。そして、この3人から私の評といたしまして、人、物、建築の空間を明確に分け、かつそれらが重なり合うことを明記した脇坂さんを竹森賞、そして丸山さん、藤岡君を副竹森賞とさせていただきたいと思います。
なお、本批評は私の個人的な意見でありますので、優秀賞ではなくあくまで竹森賞と表記させていただきたいと思います。
投稿者: 坂牛研究室 09TA326E 竹森恒平 | 2009年07月04日 06:31
日時: 2009年07月04日 06:31
空間です。
解答を一通り読んだ感想は、みな一様に内向的に空間を考えていると感じました。決してそれが悪いということではありません。ただ、ルフェーブルが70年代にすでに社会空間を論じ、建築の空間もその一部であるという言説を残しているわけですから、だれか一人くらいそこらへんに突っ込んでくれてもいいかな、と思ったのが率直な感想です。
そうすると、建物、あるいは場所におけるそれぞれの空間認知の記述とその解釈が問題となります。空間の定義は過去に幾重にも塗り重ねられてきました。そして現在でもその定義は定まっていないと言っていいと思います。そのため、今日建築を設計する者が空間と言うとき、その言葉が何を掴まえて発言しているのかが以前にも増して問題になります。そしてその意識が形になった建築にそのまま現れると感じています。
唐突ですが、先日こんな文章を目にしました。
「私は光りそのものを見たいと願っていました。 何日も同じ空間に通いその空間に現れる光を見続けました。」
これはアーティストの片桐飛鳥さんのテキストで、ここでの空間とは海辺のことです。 このテキストは何を示唆しているのでしょう?
ここでの空間は単純に物理的に囲まれた空間やヴォリューム、領域、または場所という意味ではありません。これらは非常にモダンな空間の捉え方です。モダニズムは理性に根ざした合理性や実存を重んじたために、本来物理的には空虚である空間にそれらの意味をあてがい、あたかも実存するかのように空間を扱っていたと僕は解釈しています。そしてそれがモダニズムのひとつのテーゼとして取り上げられました。空間が実存するということは、そこには人がいないということです。つまり、個人の生の活動がないがしろにされていたということができるのではないでしょうか。そのことが一般的に人間が疎外されたと言われるひとつの要因だと考えられます。だから、片桐さんの空間の使用法は現代的で示唆的であると思いました。なぜか?
従来の空間の使用法はいまだに根強く残っています。しかし、そのニュアンスは明らかに更新、拡張されています。特に現在の日本の若手建築家が実践しているように、人または個人の活動によりスポットが当てられていて、人と建築がより相互的な関係性のなかに組み替えられています。僕の現在の立ち位置もそこにあると思っているのですが、その現状を一発で言い当てているのが片桐さんの空間だと思ったのです。つまり空間とは、藤岡くんや竹森くんが評で述べているように主観的な産物であるというのが、とても現代的な解釈です。
長いですね、もう少し。
しかし、単に空間を主観としてしまうのであれば、設計者の手からはなれた空間は使用者と共有できるとはかぎりません。そこで、使用者の主観においても空間があらわれるような建築の仕組みとはいかなるものか、ということが次の問題になります。そこまでうまく答えてくれたのは脇坂さんと丸山さん。
丸山さんは人とものの関係によって、認識の違いが生じ、幾重にも重なる空間があらわれ、かつ、それが変動的なものだと述べてくれました。
一方脇坂さんは、丸山さんとほぼ同様の論旨で、人とものの関係に加えて、光や音といった現象も含めて論じています。そしてそれら諸条件にある境目に空間が生まれるとしています。どこか硬いイメージの境界とは言わずに、隣り合うふたつが関係し合っているニュアンスを含む境目と表現したところに脇坂さんの感性のおおらかさを感じました。建築設計の諸条件となる人、もの、現象(環境)を網羅し(ここでは経済生や法規は述べませんが)、その境目から空間がはじまると述べてくれたことを一番評価しました。
ということで、今回の最優秀武智賞は脇坂さんで、久しぶりに復活の特別武智賞は丸山さんとします。おめでとうございます。
最後に、途中のモダニズムの解釈の間違いやモダニズムと近代化の混同が考えられるので、不適切な解釈であったらご指摘お願いします。
投稿者: 武智靖博 | 2009年07月04日 12:03
日時: 2009年07月04日 12:03
昨晩は仕事もうまくいき美味しい中華をたらふく食べたので今朝は朝食抜き。部屋で備え付けのポットで沸かしたお茶を飲みながら皆のコメントを読んでいた。今回のお題では講義でハイデガーの話を強調したせいか、空間の実存論的側面に皆の意識が向いていたように感じた。そしてその実存性は人それぞれの趣向によって書かれている。多分それらはそれなりに意味もあるし僕もそのうちのいくつかを考えながら建築を作っているように思う。しかし実は建築はそうした実存性を備えると同時に、講義でも言ったように、デカルト的(数学的)側面を払拭することはできない。なんたって3次元グリッドの上に乗っているのだし、それをもとに図面を描いているのだから。光の言うように超越論的側面があるのだ。 あと5分で部屋を出張り替える石を探しに二つの市場に行かねばならないので、僕のコメントは中途半端なものになりそうだ、、、、つまり僕としては、つまり設計者として空間を考える時は、実存性に加えて超越論的空間の側面をどう操れるかということ。その両方を考えるべきだと思っている。そしてその架橋としての考え方が提示されることを期待したが、それは残念ながら見つからなかった。 時間があったら上海でまた記そう。
投稿者: ushi | 2009年07月05日 09:26
日時: 2009年07月05日 09:26
家具やヒトがその場所の雰囲気を作っていると感じた例は、どこにでもあるコンビニです。 コンビニの内部空間は、四角い箱によって作られた何の変哲もないただの空間なのに、独特の雰囲気を感じることがあります。それは、何かに急かされている様な雰囲気です。コンビ二には、お客さんの回転率をよくするために、様々な工夫がなされています。その工夫うちの一つが、整然と並んだ商品棚(家具)です。商品棚の高さは、成人の視線の高さよりも低く設定され、内部がどこからでも見渡せるようになっています。また、その棚に並べられる商品のニーズによって、棚の配置が決まっています。このように工夫された商品棚によって、コンビニに入る人のほとんどは、うろうろと同じ場所を何度も通るわけでもなく、一筆書きのような一様な動きを見せ、せっせと買い物をし、外に出て行きます。そして自分もその内の一人となり、早く外に出ようという気持ちになってしまいます。 以上の経験から、コンビニの空間は、目的のために、建築によってその場所の雰囲気を作るのではなく、家具やそれにより生まれるヒトの動きよってその場所の雰囲気を作っていると思います。
投稿者: 高木研究室 10TA333C 西浦皓記 | 2010年06月24日 22:57
日時: 2010年06月24日 22:57
すいません、間違いました。
投稿者: 高木研究室 10TA333C 西浦皓記 | 2010年06月24日 22:58
日時: 2010年06月24日 22:58
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コメント (20)
自分は空間とは重力のようなものだと思っている。
重力はどんなものにも備わっていて、大きさではなく重さによって強さが変わる。つまり、ものの質(密度)で強さが変わる。アートがあることでそこの場所が歪み、人に影響を与えるように、空間とはものの存在で、歪みができたときにあらわれる。
今、自分たちは、地球の重力の中で生きている。しかし、あまり意識せずに重力を当然のこととして認識している。自分はそんな意識はあまりされないが人々に影響を与えていて、意識すれば認識されるような空間を作りたいと思っている。引き込まれたまま出て行きたくなくなるような空間、その場に引き寄せられるのが心地いい空間。
投稿者: 09TA328A 田中邦幸 | 2009年07月02日 14:25
日時: 2009年07月02日 14:25
空間についての定義を教科書に習うとすれば、「身体の拡張としての空間」と考える。なぜなら、空間は私たちの行為や感覚によって形成され、また空間によって私たちの行為や感覚が拡張されるからだ。
例えば、自動車という空間を考える。自動車を運転している際に、私たちは地面のでこぼこや、道の幅を身体に近い感覚で感じることができる。実際に私たちは接触していないが、自動車が接触した場合、自分自身が接触してしまった感覚を得る。これは、自動車という空間によって身体が拡張されているのである。
次に、私の理想とする建築について述べる。それは、人のふるまいによってその建築が活性化され、建築もまた人にふるまいを促していく建築である。そして、その建築の構成要素には身体の拡張としての空間がかかせない。身体が拡張されている状態にあればこそ、その理想の建築での人のふるまいは建築と同一化する。
それは、自動車を運転しているドライバーのように。
投稿者: 浅野研究室 09TA307J 小澤明也 | 2009年07月02日 19:11
日時: 2009年07月02日 19:11
現代における空間とは、その空間の持つ性質、つまり場所性を強調するための記号であると思う。
どのようなスケールの空間、たとえ囲われていない空間であっても、その場所のボリュームを空間と言ってしまえば空間であり、即ちそれは、空間が記号と化してしまったことを示しているのではないだろうか。
さらに、この記号としての空間を考察すると、場所性を示すが為に、空間は~な空間というように修飾されていると考えられる。これは、歴史的な空間、快適な空間、明るい空間、四角い空間、終いには、囲われた空間というように、以前の空間の定義(空間=囲われた場)を「空間」に対して重ねる場合も存在している。また、たとえ空間が「空間」のみで記されている場合でも、実際にはその「空間」は何かしらの性質により修飾される。これにより、空間はその場所の性質を示すものとして成立しており、もし本当の意味で空間が「空間」のみで記されるとき、そこには知覚の対象がなにもなく、無限に広がる“無”の場所となってしまうと考えられる。
そこで、今回私の理想の建築とは、この「空間」のみで記される空間をもつ建築とする。ただ、厳密にいえば、この場合、無限の場所となってしまうため、究極的にこの状態に近いものを指す。それは、空間を空間として認識できず、ただ無限に感じられる場所である。そして、このような“無”になれる場所、「空間」は非日常と直接的につながると考えられ、住宅や、オフィスなど日常性の強い建築にあるべきだろうと考える。
投稿者: 坂牛研究室 09ta310j 加藤光 | 2009年07月02日 20:14
日時: 2009年07月02日 20:14
空間とは記憶である。
人が空間を経験し、記憶に残った場合、そこは空間として成り立つ。逆を言えば、経験していない空間や、記憶に残らなかった空間はその人にとってその空間は成立していない。つまり、空間とは個々で異なるものである。
第八講で僕は空間とは過去であると論じた。では現在体験している空間は空間ではないのか?そう思った時点でそれは既に過去であり、新たな記憶である。
さらに、空間の性格も人それぞれである。同じ空間を体験してもある人は「格式ばっていて緊張する」と感じる人もいれば、「どことなく懐かしくて落ち着く」と感じる人もいる。また、そこでの行為や出来事なども空間の性格となる。そういった性格が強ければ強いほど人の記憶に残り続けるのかもしれない。
以上より、僕の考える理想の建築は記憶に残り続ける建築である。それをつくるためには空間と機能を一対一の絶対的関係として捉えるのではなく、様々な性格をもつ空間で構成する必要があるのかもしれない。リビングや寝室を用意するのではなく、「開放的な空間」もあれば、「閉塞的な空間」もあるといったように。そして気分が晴れている時は開放的な空間でみんなで食事をし、悩みがある時は閉塞的な空間でひたすら悩み続ける。そうすることで、空間の性格が強くなる。また、第八講で論じた、人と人の距離を形成する仕切り方も空間の性格を決める一つの要因である。
そのように空間をつくることで、記憶に残り続け、何十年か経った時にも人の記憶に存在する空間が僕の理想である。
投稿者: 柳瀬研究室 09ta338j 原尚平 | 2009年07月03日 12:14
日時: 2009年07月03日 12:14
空間とは何か?
空間が有限であるとすると、その外はどうなっているのか?という疑問が生じる。空間が無限であるとすると、無限の空間とはどういうことか?無限の空間がいつ、どのようにしてできたのか?無限の空間ができる前はどうだったのか?という疑問が生じてしまう。どちらも、空間の説明はできないと思う。うまく説明ができないのだが、空間と認識しているものが、実は別の次元の影に過ぎないのではないのか、という感じがする。まず空間があって、そのなかで膨らんでいっているといった経験識思考から抜け出さなければならない。要するに虚無に空間が作られていっていると考えられると思う。
ここで私なりの空間の定義をする。空間とは「縄張り(テリトリー)」である。あるところに人がいればそこは空間になるし、自分の空間を作っていると考える。人がいて初めて空間ということを認識できるのではないか?それは物質(人含む)の位置関係でもあると思う。そうなると空間とはどこでも空間になり、すべてが空間とも呼べる。
そこで理想の建築といわれると戸惑うのだが、縄張りは人の感性でもあるので自分が無意識に気持ちよい、心地よいと思う建築になると考える。私にとって理想の建築とは出会いたくないものであり、出会ってしまったら恐怖を感じる気がする。しかしやはり実家は心地よい建築であり、落ち着く。そこには自分の縄張りがあり、建物以外の場所にもなにか自分の縄張りがある。現時点ではこれが僕の理想の建築である。
投稿者: 坂牛研究室 09ta327c 立野駿 | 2009年07月03日 17:36
日時: 2009年07月03日 17:36
空間とは、「何か」がある場所のことであると定義する。
外であっても、椅子を置くだけでも空間であると考えるし、室内で、なにもない空っぽの場所であっても、光や壁、天井などがある。そのような場所も空間であると考える。
僕の理想の建築は、設計者が、施主が提案するその「何か」を読み取って、共有することによって出来上がった建築である。しかし施主には建築を提案する力はないため、設計者がほとんど考えることになるかもしれない。したがって大切なのは、その場で設計者側が提案する「何か」を施主にいかに的確に伝えられるかである。そこで必要になるのは、その場で空間を表した手書きの絵である。その場で施主と共有できるものは紙くらいしかない。「何か」をインスピレーションで手元の紙上に表すことができれば、必要な「何か」を忘れずに表すことができるし、時間も削減し、施主と具体的な「何か」を共有することができる。その絵が、段階を踏んで、パース、模型となって建築が出来上がっていく。その手順で出来上がった建築が僕の理想の建築である。
投稿者: 土本研究室 09ta323a 鈴木久雄 | 2009年07月03日 17:59
日時: 2009年07月03日 17:59
自分の空間の定義もSemperと同じく「空間とは囲われた場」である。
ここではもう少し詳しく「空間とは周囲に意識させるものに囲われた場」と定義したい。
意識するものは、目に見える物でも、音でも、温度でも、匂いでも、何でも良い。
それでは、自分の理想の建築を述べたい。
一つの線で描いた円(○←こんなん)を思い描いて欲しい。ここでは線が意識させるものにあたる。しかし自分の理想の建築はそうでは無い。自分の理想の建築は、塗られた円(●←こんなん)である。線が意識させるものでは無く、何かが充満することで意識させるもができ、それに囲われているようなイメージである。これが難しいのであれば○の線から、少しでも意識するものがにじみ出ている状態の建築を作りたいと思う。
投稿者: 坂牛研究室 09TA308G 香川翔勲 | 2009年07月03日 18:28
日時: 2009年07月03日 18:28
空間とは、意識のおよぶ範囲のことである、と私は考える。
Semperが定義したよう、「空間とは囲われた場」であるのだろう。しかし、私はこれだけではないように感じた。なぜなら、地面に対して垂直方向にのびたものが何もない、砂漠のような場に空間は存在しないのか、という問題が生じたからである。否、砂漠も立派な空間である。「何もない」という空間である。つまり、自分の意識のなかには、砂以外何も存在しない、と認識したことから生まれた空間の発想なのではないだろうか。先に述べた「囲われた場」というのも、結局、私たちを囲うものによって、より明確に場を認識させられているだけなのではないだろうか。私たちは、壁や建物に囲まれた際、ふつうその奥にまでは意識がいかない。だからこそSemperは、「空間とは囲われた場」であると述べたのかもしれない。
以上をふまえ、私の理想の建築とは、観覧車である。観覧車には大きくわけて2つの空間がある。観覧車の内と外である。前者では同乗した人が意識され、後者ではほかの観覧車、その内にいる人びと、ほかの遊具、それらの遊具で遊ぶ人びと・・・など、数多くのものを認識することができる。また、くるくると回ることによって、さまざまな空間を体感できる。一度に数多くのものが意識され、そのバリエーションが豊富な観覧車は、空間を味わう最適の建築であろう。カップルのデートでは意味ないですけどね(笑)
投稿者: 土本研究室 09TA325G 髙橋 翔虎 | 2009年07月03日 20:00
日時: 2009年07月03日 20:00
空間とは、意味が与えられた囲まれた場所のことである。また、それを生かした理想の建築とは、入るだけでその空間の意味が伝わってくる建築である。
空間といえば、私は壁や収納などに囲まれた、場所のことであると考える。また、その囲まれた場所には「居室」や「寝室」など、様々な意味が付加されている。その意味は、空間内に配された家具などによって付加することができる。また、空間を囲むもの(例えば壁)のテクスチャーや、囲まれることによってつくられる空間の形によっても空間の意味を付加することができると思う。例えば,ゴシック建築の教会の内部空間は、上に高くのびた形になっており、天への指向性を感じることができ、キリスト教の教えを体現しているようにみえる。また、壁のテクスチャーは、コンクリートか、漆喰か、クロス仕上げかのよって随分空間に受ける印象は違うと思う。
それらの、空間に配される物・空間の形・囲むもののテクスチャーを総合的に考慮することで、空間が自らの意味を啓示する建築をつくることができるのではと思う。ちなみに、桂離宮の月波楼なんかはその一つではないかと個人的に感じている。
投稿者: 土本研究室 09TA345A 美作羽衣 | 2009年07月03日 20:11
日時: 2009年07月03日 20:11
空間とは「境目のある場」であると考えます。
空間を生む境目には、建築的なものとそれ以外のものがあると思います。
建築的な境目は、壁や天井、床、柱などを指します。これらによって、囲まれたり、区切られたりした空間が生まれます。それ以外のものとして、雰囲気や光、人、音をあげます。この境目は、建築的な境目に比べて明確には目の前に現れませんが、感じとることはできると思います。人が居る場所といない場所、暖かい場所と寒い場所など、境目が発生し、そこに空間が生まれると考えます。
また、建築的な境目のなかにそれ以外の境目が発生することもあります。同じ部屋の中にいても、光の集る所や人が大勢いる所、何も置かれていない所など、同じ部屋という空間のなかにさらに様々な空間が生まれています。私たちが生活をしている場所のなかで、境目のない場所はないのではないかと考えます。何かしらのものによって区切られ、境目ができ、そこに空間が生まれると考えます。
そこで、それを踏まえた理想の建築ですが、私は、建築的な境目によって生まれた空間のなかに、様々な空間が生まれる建築を理想とします。建築的な境目をつくる時に、そのなかに様々な空間が生まれる余地を残すことによって、さらなる空間が生まれることが期待できると考えます。
投稿者: 土本研究室 09TA347H 脇坂日南子 | 2009年07月03日 21:20
日時: 2009年07月03日 21:20
空間とは、人間がこの広い世界から差異を見いだし特別な価値を与えることで認識されるものだと定義する。そのため空間とは人間に内在するものだと考えられる。
例えば、ひとつの囲まれた部屋であっても人によって、認識する空間の質は異なってくる。また、どこからどこまでを一つの空間とするか異なる場合は、一つ一つの空間の大きさや捉える空間の数もかわってくる。これは、空間に与えられた価値が個人によって異なるためであり、それぞれの価値観や空間と接してきた時間が関係すると考えられる。
壁や天井のように囲うものや地面のテクスチャの境界などは空間を認識する際のきっかけでしかない。
このため、人間が空間を認識する際に、建築に必要とされることは、人が空間に価値を見いだし認識するきっかけを与えることだと考える。先程述べたように、時間の経過により空間に価値が付加されるされると考えるなら、人を留めることでそこを価値ある空間と認識させることができるのではないだろうか。
よって自分が考える定義での理想の建築とは、人が長い時間留まり、これを通して価値あるものとして空間を認識することのできる建築である。
投稿者: 柳瀬研究室 09ta342g 細い一宏 | 2009年07月03日 21:42
日時: 2009年07月03日 21:42
空間とは人それぞれが「ここ」と示すところだと思う。
私は空間と言われると具体的なイメージは出来ず、一つの均質な広がりを想像する。しかしそこに人やモノの存在を投入すると、そこにはその人やモノの場所ができる。見える見えないに関係なくその周りには境界が発生し、一つの空間が出来上がる。
空間の知覚とは、人やモノの存在が大きく関わる。それらの存在がそれぞれの空間を作り出していて、相互の関係で新たに空間がつくられる。よって、そこには一つの空間のみが存在するのではなく、認識の違いによって空間は幾重にも重なって存在する。ある教室で「ここ」と指すのは座っている席を表すこともあるし、席周辺である教室の窓側をさすこともあるし、はたまた室全体を指すこともある。この時、空間を分けているものは物質による視覚に代表される五感、感覚によるものが大きい。
しかし、感覚だけでなく経験も関係する。例としてグランドを挙げる。
グランドは(トラックが存在するが)ほぼ均質な空間といえる。しかし、小学校では「短距離走はここでやった」、「ドッヂボールはこの辺でやった」など以前何かを体験した場所は、その時作られた空間をその後も引きずり、空間を私たちの中に作り出している。
つまりいろいろ書きましたが、私の考える空間は、人の認識により何重にも存在し、その時その時で変わりえる居場所であるとあると考える。
そして私の理想の建築は、多様に取り得る空間において、まとまりを保ちつつも異なった居場所を自ら発見、または作り出せるフレキシビリティのある建築である。
投稿者: 丸山日惠 | 2009年07月03日 22:46
日時: 2009年07月03日 22:46
空間と場所を明確にしつつ論を進める。
空間とは、境界に囲まれている空虚である。その際、空間とはニュートラルな存在である。
それに対して場所とは主観的なものである。例えばある部屋の中にデスクがあり、自分はそこで勉強している。その際、自分の意識の中にあるものは、デスクの付近、部屋のごく一部だけである。これはある人の意識、主観によって、空間と言う空虚の中に、場所と言うスポットが生まれている事を示している。つまり空間は、その中で発生しうる場所を内包する存在であると考る。
上で述べた場所は住む人によって発生するものであり、設計者が行えるのは場所を内包する空間を作ることだけである。設計者は直接手を加えることができないのなら、住み手にできるだけ多くの選択肢を残すことが重要であろう。そのために空間は常にニュートラルであるべきである。
しかし、実際には完全なニュートラルとしての空間など存在しない。完全にニュートラルな空間とは結局概念上の話でしかなく、実際に設計していくと、必ず何か消すことができない物体が残るはずである。たとえば柱とか壁とか。そこで設計者は、その残ってしまうものをそのまま残すのではなく、きっかけに変化させることが大切なのではないか。(例えば壁を丸く歪めたり…それによって使用者はそこに座ったりするかもしれない。)ただそのきっかけには、設計者の「こう使ってほしい」とかいう思いは存在せず、ただのきっかけとして存在している。
つまり理想の空間とは、ある境界に囲われたニュートラルな空虚の中に、ポツポツと場所が発生しうるきっかけが落ちている状態だと考える。
投稿者: 09TA340A 藤岡佑介 | 2009年07月03日 22:56
日時: 2009年07月03日 22:56
空間とは何らかの感覚を共有することのできる範囲である。物理的な障害があっても、空間は共有することができる。
例をいくつか挙げる。設計製図第3のコンバージョンの公表会の時に見た映画(?)では、父親と、母親・娘の部屋は壁で隔てられていながらも、お互いの「心」はつながっているようであった。また、住宅を例に挙げると、壁などで部屋の間が隔てられていても家族の「声」が聞こえたり、台所で母親が造っている料理の「匂い」が家じゅうに伝わり、呼んでもいないのに子供が台所に集まってくる。これらは、空間を共有しているためと考えられる。近年では携帯電話の普及は空間の在り方を変えたように思える。遠い所にいても携帯で「声」を伝えることにより、空間を共有できるようになった。最初に挙げた例の場合、共有している感覚は第6感や家族の思い出などという特殊なものだが、このように感覚を共有することができる範囲が空間である。
以上より自分が理想とする建築は感覚を共有できる建築である。住宅であれば先ほど例にあげたようなものであり、学校であれば子ども同士の楽しい雰囲気を伝えることのできる建築。そんな空間を有する建築が、自分の理想である。
投稿者: 柳瀬研究室 09TA319B 佐々木大輔 | 2009年07月03日 23:14
日時: 2009年07月03日 23:14
空間とは、なにも存在しないものと思っている。
だから、卒論のときに、題目に困った。水辺空間としたかったのに、わたしのテーマとする水辺空間には、いろいろな要素が存在したからだ。そもそも水辺空間にはいろいろなものが存在すると思うから、この言葉はわたしにとって謎である。
でもこういうふうに、自分の定義と矛盾する空間はたくさんある。でも、空間とはそういうものと頭の中で思ってしまっているから仕方ないのである。
そしてなにも存在しないものより、いろんなものがあるほうが、わたしの理想の建築である。こどものときから、小屋が増築されていったような建物が好きなのである。
投稿者: 土本研究室 09ta330c 寺田聡子 | 2009年07月03日 23:17
日時: 2009年07月03日 23:17
こんにちは。今回の評者の竹森です。今回の「空間」というテーマの論点としまして、以下の3点、空間の①認識性、②多元性、③重層性、を挙げ、これに即した評を下したいと思います。
まず①に関して、皆さんの総意として空間を「主観的な認識物」として捉えている点が挙げられると思います。これは、人が事物において空間を認識すること、もっと言えば、人は事物を空間として認識すること、といえます。ここで、その空間の外部的、あるいは高次的な存在を指摘した加藤君、立野君の意見にも興味をそそられますが、今回は「主観的な認識物」としての空間についての考察を深めたいと思い、ここを評価の出発点に据えたいと思います。
次に②に関して、①から空間を「主観的な認識物」と捉えるならば、空間とは対象となる事物ごとに異なる様相を持って立ち現れ、また同じ事物においても認識する人ごとに異なった様相を持って立ち現れると考えられます。このような点から、皆さんは事物の様々な局面(精神的・抽象的・物質的等)における様々な空間を見出しているように思います。これらの空間に優劣をつけることはできませんが、今回はお題の趣旨を加味した上で、個人的な意向として、人と事物と建築との関係に直接的に関わる空間を提示した(つまり、事物の中から建築空間を特筆した)意見をクローズアップしたいと思います。
最後に③に関して、建築自身の空間を見ると、建築は巨大な造形物であるため「静的な空間」をその内部と外部に作り出すといえます。そして、そこに人事物が入り込み(=関与し)「動的な空間」が生まれます。すると、私たちの生活はこの静と動、そして動と動の空間の重なりの中で営まれているといえるのではないでしょうか。
以上のような考察から特に③の静(建築)と動(人事物)の空間の重なりについて言及した、脇坂さん、丸山さん、藤岡君をピックアップしたいと思います。そして、この3人から私の評といたしまして、人、物、建築の空間を明確に分け、かつそれらが重なり合うことを明記した脇坂さんを竹森賞、そして丸山さん、藤岡君を副竹森賞とさせていただきたいと思います。
なお、本批評は私の個人的な意見でありますので、優秀賞ではなくあくまで竹森賞と表記させていただきたいと思います。
投稿者: 坂牛研究室 09TA326E 竹森恒平 | 2009年07月04日 06:31
日時: 2009年07月04日 06:31
空間です。
解答を一通り読んだ感想は、みな一様に内向的に空間を考えていると感じました。決してそれが悪いということではありません。ただ、ルフェーブルが70年代にすでに社会空間を論じ、建築の空間もその一部であるという言説を残しているわけですから、だれか一人くらいそこらへんに突っ込んでくれてもいいかな、と思ったのが率直な感想です。
そうすると、建物、あるいは場所におけるそれぞれの空間認知の記述とその解釈が問題となります。空間の定義は過去に幾重にも塗り重ねられてきました。そして現在でもその定義は定まっていないと言っていいと思います。そのため、今日建築を設計する者が空間と言うとき、その言葉が何を掴まえて発言しているのかが以前にも増して問題になります。そしてその意識が形になった建築にそのまま現れると感じています。
唐突ですが、先日こんな文章を目にしました。
「私は光りそのものを見たいと願っていました。
何日も同じ空間に通いその空間に現れる光を見続けました。」
これはアーティストの片桐飛鳥さんのテキストで、ここでの空間とは海辺のことです。
このテキストは何を示唆しているのでしょう?
ここでの空間は単純に物理的に囲まれた空間やヴォリューム、領域、または場所という意味ではありません。これらは非常にモダンな空間の捉え方です。モダニズムは理性に根ざした合理性や実存を重んじたために、本来物理的には空虚である空間にそれらの意味をあてがい、あたかも実存するかのように空間を扱っていたと僕は解釈しています。そしてそれがモダニズムのひとつのテーゼとして取り上げられました。空間が実存するということは、そこには人がいないということです。つまり、個人の生の活動がないがしろにされていたということができるのではないでしょうか。そのことが一般的に人間が疎外されたと言われるひとつの要因だと考えられます。だから、片桐さんの空間の使用法は現代的で示唆的であると思いました。なぜか?
従来の空間の使用法はいまだに根強く残っています。しかし、そのニュアンスは明らかに更新、拡張されています。特に現在の日本の若手建築家が実践しているように、人または個人の活動によりスポットが当てられていて、人と建築がより相互的な関係性のなかに組み替えられています。僕の現在の立ち位置もそこにあると思っているのですが、その現状を一発で言い当てているのが片桐さんの空間だと思ったのです。つまり空間とは、藤岡くんや竹森くんが評で述べているように主観的な産物であるというのが、とても現代的な解釈です。
長いですね、もう少し。
しかし、単に空間を主観としてしまうのであれば、設計者の手からはなれた空間は使用者と共有できるとはかぎりません。そこで、使用者の主観においても空間があらわれるような建築の仕組みとはいかなるものか、ということが次の問題になります。そこまでうまく答えてくれたのは脇坂さんと丸山さん。
丸山さんは人とものの関係によって、認識の違いが生じ、幾重にも重なる空間があらわれ、かつ、それが変動的なものだと述べてくれました。
一方脇坂さんは、丸山さんとほぼ同様の論旨で、人とものの関係に加えて、光や音といった現象も含めて論じています。そしてそれら諸条件にある境目に空間が生まれるとしています。どこか硬いイメージの境界とは言わずに、隣り合うふたつが関係し合っているニュアンスを含む境目と表現したところに脇坂さんの感性のおおらかさを感じました。建築設計の諸条件となる人、もの、現象(環境)を網羅し(ここでは経済生や法規は述べませんが)、その境目から空間がはじまると述べてくれたことを一番評価しました。
ということで、今回の最優秀武智賞は脇坂さんで、久しぶりに復活の特別武智賞は丸山さんとします。おめでとうございます。
最後に、途中のモダニズムの解釈の間違いやモダニズムと近代化の混同が考えられるので、不適切な解釈であったらご指摘お願いします。
投稿者: 武智靖博 | 2009年07月04日 12:03
日時: 2009年07月04日 12:03
昨晩は仕事もうまくいき美味しい中華をたらふく食べたので今朝は朝食抜き。部屋で備え付けのポットで沸かしたお茶を飲みながら皆のコメントを読んでいた。今回のお題では講義でハイデガーの話を強調したせいか、空間の実存論的側面に皆の意識が向いていたように感じた。そしてその実存性は人それぞれの趣向によって書かれている。多分それらはそれなりに意味もあるし僕もそのうちのいくつかを考えながら建築を作っているように思う。しかし実は建築はそうした実存性を備えると同時に、講義でも言ったように、デカルト的(数学的)側面を払拭することはできない。なんたって3次元グリッドの上に乗っているのだし、それをもとに図面を描いているのだから。光の言うように超越論的側面があるのだ。
あと5分で部屋を出張り替える石を探しに二つの市場に行かねばならないので、僕のコメントは中途半端なものになりそうだ、、、、つまり僕としては、つまり設計者として空間を考える時は、実存性に加えて超越論的空間の側面をどう操れるかということ。その両方を考えるべきだと思っている。そしてその架橋としての考え方が提示されることを期待したが、それは残念ながら見つからなかった。
時間があったら上海でまた記そう。
投稿者: ushi | 2009年07月05日 09:26
日時: 2009年07月05日 09:26
家具やヒトがその場所の雰囲気を作っていると感じた例は、どこにでもあるコンビニです。
コンビニの内部空間は、四角い箱によって作られた何の変哲もないただの空間なのに、独特の雰囲気を感じることがあります。それは、何かに急かされている様な雰囲気です。コンビ二には、お客さんの回転率をよくするために、様々な工夫がなされています。その工夫うちの一つが、整然と並んだ商品棚(家具)です。商品棚の高さは、成人の視線の高さよりも低く設定され、内部がどこからでも見渡せるようになっています。また、その棚に並べられる商品のニーズによって、棚の配置が決まっています。このように工夫された商品棚によって、コンビニに入る人のほとんどは、うろうろと同じ場所を何度も通るわけでもなく、一筆書きのような一様な動きを見せ、せっせと買い物をし、外に出て行きます。そして自分もその内の一人となり、早く外に出ようという気持ちになってしまいます。
以上の経験から、コンビニの空間は、目的のために、建築によってその場所の雰囲気を作るのではなく、家具やそれにより生まれるヒトの動きよってその場所の雰囲気を作っていると思います。
投稿者: 高木研究室 10TA333C 西浦皓記 | 2010年06月24日 22:57
日時: 2010年06月24日 22:57
すいません、間違いました。
投稿者: 高木研究室 10TA333C 西浦皓記 | 2010年06月24日 22:58
日時: 2010年06月24日 22:58