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最終講お題

さて言葉と建築もやっと終わり。この最終講義ではまとめの意味でちょうど真実と言う言葉が登場した。これは我々が建築を作るうえでの拠ってたつ基盤のようなものである。もちろん講義でも話したとおり現在我々皆が信じて疑わないような真実は探すのが難しい。それが相対主義の時代と言えばそれまでである。しかし2000年に入り我々はそんな態度でいつまでも「何でもありよね」と言っている訳には行かない。もはや態度決定をしない人間は格差社会の底辺に突き落とされると言われている。そこで聞きたい。この時代に自分が何に真実を求めて建築を考えていくのか。答えは些細なことでも構わない。小さな事実の集合かもしれない。考えて欲しい。

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コメント (20)

柳瀬研究室 09ta338j 原尚平:

僕は「人」に真実を求めて建築を考える。
このお題が出された時、「まとめの意味」という言葉が気にかかったのでこれまでの自分のコメントを振り返ってみた。やはり人が空間をどのように感じるかといったものや人の記憶を中心に書いたものが印象に残っている。

ふと僕が柳瀬研究室を希望した理由を思い出してみると、やはり人が空間に対して抱く感情や印象を基に建築を作りたいと思ったからであった。それは今でも変わっていない。

さて、人に真実を求めるとはどういうことかをもう少し詳しく考えてみる。建築を作るのも人であり、使うのも人である。そして、建築はそれぞれの時代の人の知識や技術、要求などによって様々な変化をしてきた。それはこれからも不変的
に続いていくものだと考える。つまり、良くも悪くもその時代の人が建築を作っており、そこに真実は存在している。

上で述べたのは社会的なスケールの「人」であるかもしれないが、僕自身はこれから建築を考える際に人は人でも「個」を大切にしたいと考えている。つまり、社会的に見たら「つまらない」とか「良くない」建築と思われても、そこに住まう人や使う人が「良かった」とか「おもしろい」と思ってもらえ、さらにその人たちの記憶に残り続けるような建築を考えていきたいと思う。

09TA328A 田中邦幸:

 自分の人生観みたいなものには、以前も書いたが相対的という価値観が存在する。人生を歩んで行くなかで、周りの環境、今まで学んできたもので、自分が変化していくと思う。
 そんな考えのなかで自分が信じられるものは、「自分」でしかないと思っている。もちろん、自分が絶対的に正しいとは思っていない。しかし、そのときに判断したことは間違っていないと思っている。後から考えてその判断は間違っていることもあるが、その時点で判断したこと、その行為はそのときに自分が考えられる最善の行為だったと思っている。つまり、行動や考えは否定をするが、自分そのものは否定しない。これが、自分の考える真実です。
 建築に話を移せば、施主の要望に答える解は無数にある。その中で、自分が考えうる最大限の判断で、自信をもって解を提案することが必要である。それの繰り返しで、自分を高め、新たな建築が生まれて行くと考える。

 この言葉と建築の授業でのこれまでの自分コメントはそのときの考えうるコメントだと思っている。質問を1年後、何年後に見たとき、当然そのときのコメントは変わってくるだろう。しかし、決してそのときのコメントは否定しない。
この授業でひとつひとつにコメントを考え、まとめられたことで、自分の真実を見つめることができたと思う。

柳瀬研究室 09ta342g  細井一宏:

「人との関わり」 
 建築にはそれぞれの機能があり、存在する意味や価値を持つことが重要ではないかと思う。
 ここでいう価値とは、日々、人が生活していく中で、様々な活動を通して建築と深く関わっていき、これに見いだされる価値である。例えば廃墟は、その朽ち果てていくような姿に、特有の芸術に似た価値があると感じる。しかし、ここでの価値はそのようなものではなく、その建築がホテルや、美術館、学校であった頃、まだ人がその中で活動していたときに持つ価値である。
 これらの建築のもつ意味や価値は、あらゆる面から評価される。強度の面、使い勝手の面、コストの面、デザインの面、周囲との関係性の面からなど、様々である。しかしこれらは、人が建築と相互に関係していく中で与えていくものである。このため建築は、人との関係を切っては考えることができないのではないかと思う。人と建築とがどのように関わり、活動を豊かにしていくのか。これについて考えることが必要である。
 人との関わり、これが僕の考える真実である。

土本研究室 09ta323a  鈴木久雄:

 このテーマをみて、今までの設計製図の授業を思い出した。どれだけ自分が試行錯誤してつくった建築でも、それが真実であるかどうかなんてわからなかった。今でも正直わからない。

 そこで今回僕が注目したのは、今までの歴史のなかでたてられてきた建物である。これらは、歴史的事実を物語っている。歴史的な建物には、良いとされる建物がある一方、失敗とされる建物も存在する。失敗した建物は、本来どうあるべきだったのか、その真実は一概には言えない。でもその失敗に未来の建築をつくるヒントが隠されているかもしれない。このように、忘れてはいけないのは、建築をつくる際、今までの歴史の中に登場する事例を見て、思索し、ヒントを見つけていくことであると思う。今までの建築を知らずに新しい建築などつくれるはずはない。近頃、ただ模倣したような建物が多くみられるのは、歴史的事実を読まず、思索してこなかった結果であると思う。
 
 さらに大切なのは、その提案をみんなで共有し合うことである。一人でつくったものは、もうやられていることが多く、考えも偏ってしまうことが多い。そうなることがないように、多くの人に自分の意見を発信し、相手の意見をもらうことが大切だと考える。そうすることで、自分の欠けていた部分が補われ、案がより良い方向へ練り上げられ、最終的に良い建築が出来上がると考える。だから設計者は、独りよがりになってはいけないと思う。

 このように、歴史的事実を汲み取り、多くの人々とのかかわりの中につくられた建物が真実の建築であると考える。

坂牛研究室 09TA326E 竹森恒平:

 建築の真実とは「人を考えること」にあると思う。それは建築が人のためのものであり、人がいなければ建築は不要となるからである。では、建築と関わる人とは誰であろうか。それは建築を作る人としての設計者や施主と、できた建築と関わる人としての使用者と周辺で暮ら人である。そこで、彼らと建築の関係から建築の真実を考えてみる。
 
 建築の真実を≒設計倫理と考えるならば、設計倫理とは、まず利用者のための建築を建てることであり、その次にその周囲人々との関係を考慮した建築を建てることである。そこでは経済社会の論理は排除されるのであろう。しかし、設計倫理=真実とはいえないのである。それは設計倫理だけでは建築が建たないこともまた、真実であると思うからである。建築を安く作ることも、安い建築をつくることにも反対はしない。現在の社会では、経済性は施主の利益につながり、利用者の要求にも繋がるのである。また、上記のようなことを無視し、設計者の自己実現のために建てられた建築は、もはや建築の真実ではなく、まさに設計者のエゴといえるだろう。

 設計倫理を経済性のもとで解決し、そのことに設計者の想いを重ねていくことが=現在の建築における真実であるように思う。

土本研究室 09TA325G 髙橋 翔虎:

 私は、「命あるものと自らのエゴから導き出された答え」、そして「未来」に真実を求めて建築を考えていきたい。

 この世の真実の数は無限である。100人いたら100の真実があるはずである。また、人類の真実が、植物、動物などの命あるもの達の真実と必ずしも合うとはいえない。では、どうやって、真実をみつけだすのか。それは、命あるもののエゴと自らのエゴから導き出すしかない。と私は考える。結局は、私のエゴであり、人類のエゴであるかもしれない。しかしながら、それは、自らの視点だけでなく、さまざまな視点から考えた結果の私のエゴである。真実の数が無限なのだから、自らの考えぐらい真実といえないようでは、意味がない。もちろん、さまざまなエゴとぶつかることで、自らのエゴが変化することもあるだろう。だからといって、それまでの真実が、真実でないなんてことはない。それも真実である。つまり、真実とは積み重ねである。と私は考える。だからこそ、私たちは、この先どうするか、どうなっていくのかを考えて建築に携わっていかなければならないのではないだろうか。たとえば、ダムの建設である。それにより、周辺住民の水が確保できるという意味では、真実であろう。しかし、その一方で村が水没することは果たして真実なのか。歴史上、村が消え去ってしまうことは、この先の未来にとって真実なのか。自分たちの今を充実させるためだけの真実は、真実といえない。というのが私の真実であり、エゴである。

 いろいろと書きましたが、この世に真実なんてものはないのだろう。というのが私の考えです。この世には、真実とされている、さまざまなエゴしかないのだろう。でも、この世の未来について、さまざまなエゴをもちよって、話し合ったり、ぶつかり合ったりした、その時間こそが重要なのではないでしょうか。だからこそ、建築に携わる私たちは、少なくとも建築の未来について、そんな時間を過ごすのがよいのではないでしょうか。

浅野研究室 09TA307J 小澤明也:

真実はこれから先に見えてくる。それが真実だと信じている。
建築について色々知らなければならないが、知らないことの方が99%占めている。唯一知ったことは、建築を教えている大学のカリキュラムについてだけかもしれない。それでも、建築に関り、実際に建築が建てられる場にいることを望む。
だから、今現在では建築という真実が見えていないことが真実であると考える。
このお題について考えているときに内田樹の言葉が思いついた。それは、「ある概念が「何を意味するか」を初学者に教えようとしたら、ただそれを厳密に定義してみたり、別の言葉に言い換えてみても、ほとんど効果がない。・・・ある概念を「持っていない」人間に、その概念を「分からせる」ためには、「お話を一つ」しなければならない。・・・「お話」の中では不可思議な出来事が語られる。私たちはそれを記憶する。・・・けれどもその「お話」が喚起した鮮烈な図像や、響きわたる音響や、熱や、香りや、痛みは、はっきりと記憶されて、身体の奥底に沈殿する。そうやって沈殿した「お話」は私たちのなかで時間をかけて、ゆっくりと「発酵」する。そして、そこからある日「ぽこっ」と泡が出てきて、意識の表層までたどりついたとき、私たちは不意に「あ、わかった」と膝を叩くことになるのである。「お話の効用」とはそのようなものである。」
私たちの過ごした大学生活での建築との時間は、小さな「お話」の積み重ねであり、いつか「ぽこっ」と浮いてくると信じている。

柳瀬研究室 09TA319B 佐々木大輔:

真実は変化することのない絶対的なものである。そこで、建築における真実は、「その建築が建てられた理由」と考えた。

新たな建築が建設されるとき、場に何らかの影響をもたらす。とくに高密化された日本の大都市などにおいてその影響が顕著にみられる。ビルを建てるにしても周辺の日射を遮らないように配慮する必要があり、また、建築に高彩度の配色を施すと近隣住民から非難を浴びることになる。独りよがりな建築は好まれず、周辺環境に配慮する必要がある。しかし、どんなに配慮したつもりでもビルが都市の風の通り道を遮るなど、周囲に影響を与えることはもはや回避することができないように思える。このように周辺の環境に真実を求めるとなると、環境は常に変化するため、真実は存在しない。そこで、建築の存在意義そのものに真実があるのではと考えた。日本が無宗教であることや、生活スタイルの多様化などから建築における真実が分かりにくくなった。しかし、必要性があるから新しい建築が生まれるという真実だけは変わっていない。

坂牛研究室 09ta327c 立野駿:

私は「真実」とは「明日」のようなもの。と考える。
明日は到達した途端に「明日」ではなくなり「今日」となる。真実も到達した途端にに「現実」と名を変えるのである。現実の先にまた新たな真実が生まれてるのではないか。明日の明日はまた明日。明日は延々と続き、その先に「未来」=(?)「真実」がある。こんなことを言ってロマンだのこうのという訳ではない。現代は何かに特化したものを認めないという風潮がある。それはそれでいいと思う。時間だけは真実?とかそういうものでもない。
話を建築に移せば、昔の建物も今の建物も当時はなにか(たとえばそこに建築が必要だった理由)に真実を求めたとして、それが真実だったとすれば到達した途端に現実になったと考える。私が言いたいのは建築そのものが真実でありそこに「どこが」や「なにをもって」真実かというものではないと考える。いまある建築が真実なのである。

坂牛研究室 09ta343e 丸山日惠 :

 ここで述べる真実とは、自分が建物の設計を行っていく上での信念につながるものだと
思う。そこで私の「建築における真実とは、理想である」としたい。

 「現実の中で建築を建てるべきであって、現実抜きの理想をいくら述べても意味がない。」大まかに言うとこのような意味のことを、以前坂牛先生が述べていた。(授業だったのかゼミだったのか忘れてしまったのだが…)その時私は素直に、その通りだな、と感じた。それは、理想を見ることがいけないのではなく、今存在している前提から目を背けることがよくないなのだ。建築は(建築以外でも何かを生み出すということは)、理想を持って作られたものが多い。そうでなければ建築がここまで発展することもなく、私も特に興味を持たなかったかもしれない。皆さんも今まででの課題で設計するとき、自分の(また、おそらく使用者の)理想を目指したのではないでしょうか?

 お題に書かれている「この時代」に限らず、建築に理想を求めていくことは昔から真実であったのではないかと思っている。

土本研究室 09TA347H 脇坂日南子:

 私は、自分に真実を求めて建築を考える。

 この社会には、多くの情報や人間関係が存在する。そしてその社会が、すべて真実や本音だけで成り立っていないことは誰でも知っています。みんなウソをついて建前と本音を使い分けて生活している。私はそのような社会が駄目だとは思わないし、ウソをつくことで物事が円滑に動き、誰かが傷つかないのであれば良いことだと思う。ウソが無い社会はもはや成り立たないと思う。そのように、ウソが前提としてあるこの社会のなかで、何が真実であるのかを決めるのは自分でしかないと思う。目の前にいる人が話していることや、反応が本心であるのか建前であるのかは、本当のところは本人にしかわからない。ならば、自分でこれが真実であるのかないのかの判断をしなければならない。判断をした瞬間、そこに真実が生まれると考える。それを本心だと決めるのは自分であるし、たとえその判断が他の人からみて間違っていても、自分が本心であると思う限りその判断は真実となると思う。逆に言えば、相手が本心を言っていても、自分が疑ってしまえば、その本心は真実ではなくなるのである。

 建築において考える場合も同様である。何が真実なのかは自分で判断するしかないと思う。建築が生まれる過程において、多くの人と接し、多くの情報を得るだろうが、そのなかから真実を自分で探し、判断していく。自分が正しいと判断したことが、自分にとっての真実となり、そこから建築が生まれると考える。

香川翔勲:

何に真実を求めて建築を考えていくのか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


建築。

土本研究室 09ta330c 寺田聡子:

わたしが建築を考えていく中で、何に真実を求めるのか。それは、いままで参加してきた研究室の調査で得た知見である。調査に参加して、地域の方々や先生方、先輩方から教わったこと、および自分が感じたこと、それらは、私が建築を考えるうえでの根底になっている。自分で経験したことが、いちばんの真実であると思う。

坂牛研究室 09ta310j 加藤光:

私は、建築を考えることにおいて、「時間」に真実を求める。

なぜなら、人間は時間からは絶対に逃れることはできないから。複雑な理由をもって、時間に真実を求めている訳ではない。単純にして、最大の理由である。

人間が時間から逃れられない以上、建築も当然時間からは逃れられない。

しかし、時間は逃げれば追ってくるようなものではなく、この世界に存在するモノ全てにおいて均等に与えられるものだ。
したがって、建築の時間を考えるとき、時間から逃れるという感覚ではなく、時間は当然在るものとして捉え、それをどう“使うか”ということに重きをおきたい。

例えば、リノベーション。リノベーションは、過去の時間(=歴史)を生かす。この過去の時間に真実を求めることにより、その過去は、現在にとっての価値となる。

例えば、現在の設計。現在の設計は、現在の時間(=現実)を捉えることにより、コンテクストとして生かすこともできる。これは、現在の時間に真実を求めた結果である。また、ここでは、未来の時間(=将来の状況)を考慮することにより、フレキシブルな計画もすることもでき、これは未来の時間に真実を求めることである。

そして、現在の私たちだって同じだ。いま、設計を学び、空間設計のコメントを書き、建築学を学ぶことは、自分の未来につながる。これは、未来の時間に真実を求めることといえるだろう。そうでなければ、大学に、建築学科に入った意味がない。

つまり、建築に流れる時間を当然のものとして捉え、さらにその時間に意味を見いだすことが、「時間」に真実を求めて建築を考える、ということではないだろうか。

坂牛研究室 09TA340A 藤岡佑介:

何に建築の真実を求めるかと言う事は、今後自分がどういうスタンスで建築と関わっていくかと言う事であろう。それに対して自分は、専門家としての感覚と、ごく一般人としての感覚を持って建築を考えていきたい。

自分たちは、非常に専門的なことを学んでいる。哲学とか社会学とか。それは建築が様々な分野と関係し合っており、多角的に建築を捉えなければ本質をつかめないことを示しているのだろう。

それらの複雑な学問が絡み合う建築を学ぶ上で、自分たちは建築を全く知らない人が考える、建築に対する普通の考えを忘れがちである。専門的なことを知っているがゆえに見えなくなることもあるだろう。

もちろん建築を考えるには様々な知識を持っていないと、かたちなんて作れない。しかしその出てきたかたちを最終的に判断する自分は、普通の感覚を持っていたい。なぜなら、その後その建築を使用する人たちが(特に住宅に関しては住む人が)、ごくごく普通の人だからこそである。

今の自分の中には二つの感覚がある。一方は専門家として、他方はごく一般人としての感覚である。どちらが正しいというわけではないと思う。だからこそ、設計に対する自分のスタンスとしては、専門的な知識を持っている専門家としての自分と、普通の感覚を持つ自分、両方の感覚を持っていることを常に意識していたい。建築の本質(真実)は、専門的な分野と普通の世界、その両方が重なるところにあるのだと思う。

土本研究室 09TA345A 美作羽衣:

 こんにちは、意図せず言葉と建築のラストを飾ることになりました、評者の美作です。どうぞよろしくおねがいします。
 今回のお題は、「何に真実を求めて建築を考えていくのか」でした。15人が信じるそれぞれの真実を見て思ったことは、全員に共通する真実などはやり存在しないということです。絶対的な真実なんて、突き詰めていくと「存在するものはいつか無くなってしまう」ということくらいしか思いつきません。15人いれば15人分の真実があるのは当然で、甲乙つけるものでもない。そんなわけで、今回の評は私の考えに近いコメントに最優秀賞をあげたいと思います。とりあえず、賞の発表の前に私の意見を述べます。
 私は、真実を自分に求めて建築を考えていきたいと思います。さまざまな人の意見や、これまでの経験を咀嚼して、最終的に何が真実か判断するのは結局自分であると感じているからです。
 さて、みんなのコメントをおおざっぱにまとめると、「人間」と「建築」に対するコメントが多かったように思います。そのなかで、最優秀賞は真実=自分とコメントしてくれた田中くんにあげたいと思います。真実=自分とするコメントは、他にも脇坂さんがいましたが、真実は自分が成長によって変化していくものであるという田中くんのコメントを選びました。また、高橋くん、小澤くん、寺田さんは、関わりということに着目しています。これらのコメントを読んで、人や建築と関わり、多くの経験を積むことが、自分の持つ真実の土台になるのだと思いました。
 また、竹森くんの「設計倫理を経済性のもとで解決し、そのことに設計者の想いを重ねていくこと」と真実とするコメントは、実際に設計を行っていく上で、建築の真実とはなにかと考えたときに一番現実味があると感じました。さらに、「真実」とは「明日」のようなもので、現実につくられた建築自体が真実であるとした立野くんのコメントは、私の考えにはないものであり、興味をもちました。よって、優秀賞は竹森くんと立野くんとします。
 長々かいてしまいましたが、これで終わりとします。考えすぎて頭が痛くなってしまいましたが、15人分の真実をよめてよかったです。

うし:

なるほどこういう傾向の答えが出てくるとはあまり予想しなかった。建築はウィトルウィウスの時代から3つの柱で成り立ってきた。それは用・強・美である。その意味では構造の人は強を信じ、設備の人は用を信じ、意匠の人は美を信ずるものである。

しかしこれは古典的な解釈。

いまどきは皆のコメントのごとく信ずるものが制作側か受容者側かに2分される。なるほど。面白い傾向である。美作さんが言うようにこの答えに優越はつけられまい。

さてそれではレポートについてである。

住宅を一軒設計してほしい。

その住宅はどのように誰が使うかは設定は自由。ただし、この講義で使われた建築概念を用いてその住宅の設計コンセプトを1000字にまとめること。ここで重要なことは単にその概念を使うということではなく、その概念で問題になっていること、あるいはその概念が使われてきた経緯、あるいはその概念の指し示す内容の種類などに注目した上で、自分がその概念を鵜呑みにするのではなく、拡張すること。その拡張によって新たな建築が生まれることを重要と考える。建築とはクリエィティブな行為であることを再度認識してほしい。過去の人が行ったことと同じことをするならやらない方がいい。それは論文の盗作と同じである。これは先人の知恵に学ぶなと言っているのではない誤解してはいけないl。先人の知恵を下敷きにする場合もそこに自分の新たな発想がその上に載っていないものに意味はないと言っているのである。そこで講義で得た概念をもとに自分の概念を新たに作ることがまずこのレポートのスタートである。

次はそれを建築にするところである。その方法は君たちの概念によってさまざまであろう。空間なのか形なのか?????

場所は焼き鳥や大吉があるところ。交差点に面して建つ住宅である。

提出はドローイングとコンセプトをまとめA3シート1枚と1/100の模型。8月5日5時までにに坂牛研究室に提出すること。坂牛研m1の誰かが受け取り責任者になりそれを他の研究室に伝えること。

コンセプト30点、デザイン30点、レイアウト30点とする。

質問があればこの掲示板にどうぞ。掲示板上で答えます。

09TA328A 田中邦幸:

模型の大きさは25cm×25cmにおさまるように作ってください。

kami:

wan shan hao

みなさん、お疲れ様でした。

私自身、この講義を受けたのは2年前でしたが、自分達の頃に比べてみなさんの文章を書くということに対する慣れた感じに驚きつつ、仕事の終わった夜にいつも興味深く読ませていただいていました。

「真実」という言葉。
今回の建築において真実というものをM1の皆さんに問うという課題はかなりの難題、且つ先生のみなさんへの期待と見えました。

そこで普段は若干、斜め読みなのですが、今回は少し蛇行幅を大きく取って読ませていただきました。

率直な感想。
建築へ向かう媒体に目を向けている、真実という言葉を道徳的に捉えている、真実という形而上学的なことばをそのままに哲学的な解釈をしているという印象を持ちました。もちろん、これはこれでイイと思う。そもそも真実とは人それぞれなのだから。

ただ、一つ。「建築において」という括りを忘れないで欲しいと思った。

建築において真実とは建築の中にしかない。人は建築では無いし、歴史も形而上的な話も建築ではない。歴史は建築対して後発的なもので、建築は形而下の話。
それぞれ、建築の界隈の事ではないのか?建築がそれらによって作られる可能性はあるが、あくまで「それら」なのである。建築の本質ではないのでは?

先生も書いていましたが。みなさんの求めた真実の出発点が受容者と制作者という言葉で括ることの出来る状態は結構危険だと思いました。この状態でもし実施設計をした場合、ほとんどの割合で受容者に押されるだろうなと思ったわけです。

そのような状態で創った建築はハウスメーカーの創ったモノと大差ないかもしれない程の危険性があるでしょう。

私は建築に対して抱いてきた真実
とは建築の中にしかないと思っています。常に建築を作り出す内発的な要素を必死で追い求めているつもりです。

用途は関係ありません。建築とは何によって出来ているのか?何があれば建築なのか?何が無くても建築と成り得るのか?いつもそんなコトを考えながら建築を創っています。

ちなみに今回、香川くんのコメントが印象に残りました。誰よりも「建築」の中に真実を求めようとしている気がしました。その言葉に出来ない建築の真実に対する微かな想いに可能性を感じました。

みなさん、建築に悩んで建築を楽しんで下さい。

ありがとうございました。

牛:

神山ありがとう。究極的には建築は建築でしかない。まったくそのとおりである。I completely agree!!!!!!!!!!!!しかしその言葉の持つ重い意味をどうやったら学生に理解させてあげられるのだろうか今の僕には答えが得られていない。今日は製図第五の講評会だったが、久しぶりにちょっと考えてしまった。

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2009年07月13日 19:01に投稿されたエントリーのページです。

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