脱構築とコム・デ・ギャルソン
松田 その関連で、今度は入江さんにお聞きしたいと思います。コム・デ・ギャルソンの服で、特に、82年から90年代の初めくらいに、アシンメトリカルだったり、ぼろルックと言われたような形状が出て来るんですが、建築でもある意味似たような造形がはやった時期がありますね。ポストモダニズムといわれる建築の後に、デコンストラクションや 脱構築と表現される建築をつくる建築家が何人か出て来ました。見た目に崩れたような印象のデコンストラクションの建築と、思想で言う脱構築との関係が話題に上がったりもしました。ファッションの世界で、80年代後半あたりに、川久保玲と 脱構築を結びつける人がいたのか気になります。入江さんは、デコンストラクションの建築に興味を持たれて、その研究もされていたわけですが、入江さんから見て、川久保玲によるコム・デ・ギャルソンの服と、脱構築「的」な建築とのあいだに、何か結びつきや似たところは見られるのでしょうか。時期的には、重なるんですよね。80年代の後半ですから。
入江 僕は言葉を使うときは慎重でないといけないと思っているんです。確かによく言われますね。コム・デ・ギャルソンというと、脱構築だね、みたいなことは。僕は、わからないので、ひとまず言わないことにします(笑)。
ただ、僕がここで、コム・デ・ギャルソンに興味を持てるというのは、おそらく僕が建築物をみるときも、つくる時も、一番重要視する「形式」とか「構成」とかという部分なんです。僕はよく学生に、お笑いの、M-1グランプリ、あれをよく観察するようにって言ってるんですが、漫才のなかで、どうやって形式を崩すかってところに、笑い飯が出てきたわけですね。典型的な古典では、ボケとツッコミってことで、技術的にそこに挑戦しようという人はいるんですが、笑い飯が出て来た時は、お互いボケとツッコミをくるくる反転しながらやるということで、典型を崩しにかかったと。そこが評価されたんです。その場的に面白いことを言う芸人はいるんですけれども、やっぱり形式とか構成とかの部分でで、新しいものを出していくことで歴史にも残りますし、僕もそこを重要視しています。
ギャルソンに関しては、カッティングの仕方とかは、分からないですけれど。やっぱりそういうところがおもしろいですね。脱構築とは言いませんが、非常に挑戦している部分があると思うので、そこにものすごく興味がありますね。ただ単にかたちをゴチャゴチャにすればいいわけではなくて。根本に何かがあるんですね。
ギャルソンを語るのに、自由とか解放とか身体性とか精神性とかいろいろあると思うんですが、そういうところに持っていくために、形式を崩していくことがあると思うんです。例えば、ちょっと前に、「草食男子」という言葉が出てきましたが、おそらく、これについても、はるか以前に川久保さんは、中性化という問題を取り扱ってたと思うんです。.一般的にみて、男性だからこういう風に見えないといけないとか、女性だからこういう風にみえないといけないというような型枠、一つの古典的な形式ですけれども、それを崩すというか。ニュートラルにしただけなのか、そこはちょっと分かりませんが、その中性化にいく方向性というのは、前から持っていたんじゃないかなと、そういう見方をしてます。
さっきのマネキンの話なんですけど、実は僕も買おうと思ってまして。それで、色々かぎ回っていて、キイヤっていうメーカーのものがいいらしい。
坂牛 マネキン買ってどうするの?(笑)
入江
いやいや。色々ありますよ。建築の図面描くときってどうしても、二次元が前提になりやすいでしょう。平立断にしても。それをどうにかしようと思って、スタディ段階で、CG使ったりするようにしているんですけれども。生地というのは面だから二次元だとすると、でき上がった服は三次元になるけど、収納の仕方とか生産の仕方を考えると、二次元にならざるを得ない。その辺、マネキンっていうものは、ボリュームのある立体なので、これを使って、二次元的なものと三次元的なものとの間を行ったり来たりしながら作っていくというところが、ファッション系の面白さだなあと。建築でも、何かスタディ段階での方法を、考えて見ているところなのです。
松田 まさに建築でも、図面と模型とを交互に見るという意味で、ファッションの二次元と三次元を往復する動きと同じよう なことをやっているなぁと思います。
坂牛 ファッション画には、後ろと前しかなくて、横がないって、森永さんどこかで書いてませんでしたか。
森永 はい。洋服で一番最初に習う事は、人の身体をいかに包むかということと、マネキンなんです。原型とされるものをもとに展開していくことを習うんですけれど。最初、パターンは、左身頃半分のものしかもらわないんです。それを、対称に、反転して作っていきましょうっていうのが基本で、つまり、アシンメトリーはありえないという教育を受けるんです。やっぱり、人の身体の上で洋服を作る以上、人の身体をベースにしなくてはいけないので、なかなか新しい造形へのチャレンジや、人の身体と布との間の空間づくりということなどには限界があるということがわかってくる。その人の身体が変わらない限り、新しい洋服は生まれないと、鷲田清一さんも言っていますが、その、人の身体自体を問い直すことというのを、まずしなくてはいけないのではないかと思いましたね。そこから、マネキン自体を変形させたり、まったく人の身体とは違うものにしてみたり、そういうことを追求して、ここ最近やってきているんですけれども。
たとえば、この、球体にしても、いま、僕が着ているものが、まさに球体のボディで作った服なんですが。もちろん、球体の形をした人間っていうのはいなくて、結局誰の身体にも合わないという、SMLのサイズで人の身体に合わすという概念を超えたところで、誰にも合わない洋服を作ることで、逆に誰でもが着れる可能性が探れないかと考えました。これにもサイズはありますが、従来の性差であったり、人種の違いや体型の差、そういうものを少し越境するために、今後も、色々とマネキンの問い直しというのが必要になっていくのではないかという考えです。
坂牛 その話は衝撃的でした。それを聞いたときに、建築ってなんて堅苦しいんだろうって思ったんですよね。やっぱり建築もクライアントという「着る人」がいる。その「着る人」が変らないと建築も変わらない。それだったら、もっと新しい人間を勝手に想定して作る建築があってもいいんじゃないのっていう風に思いました。 |