建築、設計、コムデギャルソン

建築家はファッションをどう見るか

 坂牛  先ほどちょっと言いましたように、僕の研究室の学生が装苑賞に出すために、研究室で一生懸命服をつくっていました。マネキン持って来て。なんで製図室にマネキンがあるんだなんてことを、他の先生に言われたりして。これも研究の一部ですから、とか言いながらつくっているわけですね。全然服づくりなんかしたこともない素人が、一生懸命、ミシンで縫ったり、切ったりして。こんなんで出来んのかなって思って見ていたら、その装苑賞の最後の10人だかに残った。でも、やっぱり駄目なんですよ。駄目っていうのは、技術がないというのが如実に解る。僕らでも解る。やっぱ素人だなぁという気がしました。で、そういう素人が、僕のことですが、コム・デ・ギャルソンの服を一生懸命見ても、解んない事がいっぱい、あるんですね。逆に僕らは建築を見た時に、建築の技術的なところに気付いてしまいますよね。おそらく、それはファッションの方には解らないわけです。それと同じです。僕らが洋服を見た時に、どこが良いのか解らないみたいなことってかなりあるはずなんですよね。なので、その洋服のリアルなものについて、ここが良いとか、素敵だとかって話をし始めると、森永さんなんかは、ちゃんちゃらおかしいと思うでしょうから、その話はしないことにします。
そこで、川久保玲という人の、ものづくりのスタンスみたいなところに焦点を当ててみたいと思います。、そこにはクリエイターとして非常に共感する部分があったり、するわけです。その共感する部分として、彼女がものをつくる時に、パタンナーに、絵を描いて、これでつくりなさいということを、あまりしないというのを読んだ事があるんですね。どっちかっていうと、言葉で伝えて、パタンナーに考えさせるという作り方をしていると。そうだとすると、川久保玲という非常に強い個性を持った人が、自分の個性に徹するのではなくて、ある他者を介して自己を実現化しているのではないかということを感じるわけですね。もう一つ、川久保玲のブランドというのが、十幾つもあると聞いて、とてもびっくりしているのです。もしも、川久保玲がある一つの個性でものを作ろうとしているのであれば、ブランドは一個のはずだろうと。それが十何個もあって、どう統制しているのか良くわかりませんが、そのどれもに、強いアイデンティティーがあるように見える。これは色いろんな他者性を入れながら自らを拡散しているということなのかとも思います。
それから、コム・デ・ギャルソンのファッションショーを、ユーチューブでパラパラと観ていると、モデルを使わないで、一般人、あるいは有名人に着せて歩かせるショーがあったんです。そこでは、川久保玲のアイデンティティーが消えている感じがしたんですね。すごく個性的な顔がいっぱい出て来て、先に顔に眼がいくんです。そんなことは、彼女は計算済みなんだろうなあと思いましたが。一方で、頭にストッキングをかぶせて、顔を消したフェイスレスの状態で歩くショーをみると、圧倒的に、僕の注意は洋服にいくわけです。顔ってすごい個性だなと思うんですけども。つまり、彼女は意図的に、洋服に注意を向かわせていたり、一方では、洋服からわざと注意を飛ばしてしまったりするんですね。それは、さっきの強いアイデンティティーというのを、わざと消すみたいな操作とよく似ています。ものづくりだけではなくて、全体の見せ方を含めて、川久保玲という主体っていうのは、すごく他者性を入れながら、他者性と摩擦をおこしながら自分の主体をぐっと鮮明にしている。そういう操作を戦略的に、あるいは感覚的にやっているんだなと感じます。
それって、建築をつくる時にも起こることで、他者性をどういう風に取り込むのか、取り込まないのか。エクスクルーシブに主体性だけでものを作るのかということと、共通したところがあります。そこが、同じクリエーターとしては、非常に興味深い。

80年代は、とんでもなく強い個性だと思ってましたね。でも、どうもそうではないのではないか、と考えるようになってきました。強い個性なのは当然なんですけれども、その作り上げ方がどうもエクスクルーシブに自分の個性だけで、作っているわけではないということがだんだんわかって来たのです。

 松田  その他者性の話でいうと、スタッフにコンセプトだけを伝えて服を作っていくというので思い出したのですが、ル・コルビュジエも似たような事をやっていますね。有名な話ですが、ブリュッセル万国博覧会におけるフィリップス館の設計の際、インドに行く前、所員のイアン・クセナキスに対し、クシャクシャっと紙を丸めて渡し、それをクセナキスが解釈していったことから、ブリュッセルのパビリオンが出来上がっていきました。そういう過程がかなり似ていると思います。実はさっき、ディヤン・スジックによる コム・デ・ギャルソンについての本の最初のところで、川久保玲が会話の中で、ル・コルビュジエを賞賛するようなことを言っていたという記述を見つけて、僕は結構びっくりしたんですね。要するに、モダニズムを体現した人の ことを、川久保玲がある意味、フォローしていたということにびっくりした。もしかしたら、さっきの話も知っていたのかもしれない、いずれにせよやっていることがすごく似ているような気がしてきたんです。
で、話しはちょっと戻るんですが、坂牛先生が先ほど、具体的にファッションのディテールについて、今日は話をしないとおっしゃっていて、僕も確かに全然分からないことなのですが、今日は森永さんもいらっしゃることだし、デザインにも触れてみたいと思います。
南谷えり子さんという、元ELLEの編集長の方が書かれた『ザ・スタディ・オブ・コム・デ・ギャルソン』という本のなかで、服の作り方をパターンを使いながら、かなり紹介しているんですね。線を入れるとそこにダーツができるとか。これを見た時に、建築的に理解できる部分が結構あるなという気がしたんです。要するに、川久保玲のアシンメトリー性みたいなものがどうやって出来ているかということが説明されていたのです。布を無駄に使わないとか、布のかたちなどの前提条件から多くのことは決まっていて、単に意匠的にアシンメトリカルになっているわけではなくて、布の使い方を順番に考えると出てくる 合理的な形であると。つまり、見た目の印象でつくるのではなく、布の形状にあわせて生まれた合理的なアシンメトリー性を良しとしている。これはすごく建築的な感じがしました。建築的な 部材の使い方にも似ているなあと思ったんです。


 坂牛  先程の、装苑賞に出した女の子は、建築学科を卒業するときに行う卒業設計を、服飾理論でつくりました。一枚の布から建築をつくる。布って言っても、それを硬化させたりしなくてはいけないのだけれども、一枚の長い部材を切り刻んでいって、つまり無駄にしないで、それを全部使う提案をしました。日本の反物のような考え方でね。で、そうやってグジュグジュグジュってやると、当然の事ながら、アシンメトリーになるんです。めちゃくちゃになるんですけども、今話を聞いていると、コム・デ・ギャルソンの服と、その学生がつくっている建築は結構考え方の上で似ているのかなと思いましたね。

   

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