それぞれのコム・デ・ギャルソン体験
松田 今日はコム・デ・ギャルソンについて、アンリアレイジの森永邦彦さん、建築家の坂牛卓さん、建築家で琉球大学の入江徹さん、松田の4人でお話をしたいと思います。つまり建築が3人、ファッションが1人という構成です。コム・デ・ギャルソンについて、建築の人が話すという機会は、少なくないと思いますし、建築との共通性みたいなことも言われたりすることはあるんですが、改めて話をするとなると、どこから話をしたら良いのか、解らずにいる感じで、若干の戸惑いも感じています。森永さんがいらっしゃいますので、時々、ファッションの側から補足をして頂いたり、コメントを頂いたりできれば嬉しいなと思っております。
それでは、森永さんから順に、自己紹介をして頂いて、できれば一言ずつ、コム・デ・ギャルソンとの出会いのようなこと事を話して頂ければと思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。
森永 アンリアレイジというブランドをやっている森永と申します。大学時代に洋服づくりを始めて、それが段々と数が増えていってブランドになっていったんですけれど、今年で9年目になります。最初はクラフト的な、非常に時間をかけて、手を使った作品を作っていたのですが、ブランドの後半期からは、「かたち」や「からだ」との関係というのを1つテーマにして、半年ごとにテーマを設けて発表を続けています。
コム・デ・ギャルソンとの出会いは、明確にこれっていうのはないんです。ファッションに興味を持った頃に、まわりがやたらにコム・デ・ギャルソンを着ていて、服づくりをしている先輩なんかも、とても変な洋服を着ていて、聞くとコム・デ・ギャルソンだと。そんなふうにして、ブランドの名前とデザイナーの名前を知りました。川久保玲という名前を聞いて、最初、男性がつくっている洋服だと思い込んでいました。興味を引かれて実際にお店にいったり、コレクションを見たりして、どんどん好きになっていきました。
松田 ちなみにその出会った時期はいつごろですか?
森永 1998年くらいからです。
松田 「こぶドレス」の直後くらいですか?
森永 そうです。ちょうど青山店がリニューアルしたときです。
松田 なるほど。ありがとうございます。では 坂牛卓先生、お願いいたします。先生は、東京理科大学で教えられていまして、ブログでファッションのことを色々と書かれていらっしゃいました 。
坂牛 建築の設計をしています。また東京理科大学で建築を教えています。コム・デ・ギャルソンとの出会いというのは、’82、3年、僕が大学3年くらいの時なんですが、渋谷パルコにお店を見に行った時ですね。たまたま、何か不思議なお店があるなと思って入ったのがコム・デ・ギャルソンでした。モルタルの床に亀裂が走っているようなお店で、ほとんど洋服を置いていないのです。そういうディスプレイの仕方も、店のインテリアも、とても衝撃的だった記憶があります。とてもストイックな空間の中に、黒い服だけがずらっとあって、白いシャツもあったかな。とにかく黒と白しかないし、インテリアもモノトーンで黒、白、グレーという、そういう色彩が極めて印象的でしたね。
当時、僕の大学では、倉俣史朗が非常勤で教えに来ていまして、倉俣さんの課題が「ショップ」だったんですね。で、僕はシャネルのお店をつくることにしました。シャネルは白と黒だから、白と黒だけで。そういうことがあったので、コム・デ・ギャルソンのお店を見たときのモノトーンの衝撃っていうのが格別でした。
また当時、僕の研究室の先輩がコム・デ・ギャルソンを多く着ていました。なんかダブダブした服を着た女性がいるなって思っていました。後から、あれはコム・デ・ギャルソンだということを聞いて、自分でも着てみようかなと思って、いくつか買った覚えがあります。
建築とファッションの関係には、非常に緊密なものがあるとずっと思っていて、大学で教えるようになってからも、輪読の授業で、半分くらいはファッション関係の本を読ませるということをやってきています。なんでファッションかっていうと、着てるものがだんだん大きくなると建築になるという他愛もない考え方なんです。でも、昔から建築家でファッションを引用して、建築論を語る人はいるんですよね。ゴットフリート・ゼンパーとか、アドルフ・ロースとか。で、そういう指導を続けていたら、卒業設計で、ファッション理論で建築を作る子が出てきてその学生は実際に洋服のデザインもして装苑賞の公開審査会まで残ったんです。
そういう中で、川久保玲という人が、やっぱり日本のファッション界の中で、巨人だなと常々思ってきました。
松田 ありがとうございます。それでは次に入江さん、お願いいたします 。
入江 琉球大学の入江徹です。僕は、皆さんほどコム・デ・ギャルソンというのに関わりがそもそもはなくて、フセイン・チャラヤンっていうデザイナーがずっと好きで、今もずっと好きなんですけれども。ギャルソンていうのは、当然知ってはいたんですけれども、全然関わることはありませんでした。一番最初に関わったのは、香港に行った時です。
香港に行った時に、アイ・ウェイウェイの展覧会というか、アート作品がギャルソンのお店に展示してあるので観に行ったらと言われて、ギャルソンのお店に行ったんですね。アイ・ウェイウェイの作品があるって聞いて来たんだけど、って店員さんに言うと、「もう終わったよ」って話で、残念ながらそれを見ることができなかったんですけど、その時初めて、ギャルソンのお店に入りました。デパートとかでもギャルソンのお店は見てはいたんですけど、ブースの中に入った事はなかったんですね。遠目に見る程度だったんですけど、はじめてお店に入ったのが香港で、しかも本当に最近で、1、2年前なんです。その時に、店員さんの着るギャルソンの服や、展示してある服を見ておもしろいなって思ったんですね。それで、プレイのTシャツだけ買って帰ったんです。それが始まりですね。
その後は、うちの研究室にも、もう卒業してしまいましたけれど、すごくコム・デ・ギャルソンが好きで、常に着ているという学生がいまして、彼からちょくちょく話は聞いていました。服のことやデザインのこととか。これまで、僕はスタンスとしてはチャラヤンが好きという感じではあったんですけれども、今回松田さんから、このお話しを頂いて、実際にいろいろギャルソンのものを見たことで、かなり興味を持ち始めたというのが、正直なところですね。
松田 ありがとうございました。僕自身は、このなかで一番距離が遠いというか。 コム・デ・ギャルソンについて、実際に何か自分自身にとって大きな関わりがあったかというと、なかなか思い浮かばないんですね。その 意味では、今日はニュートラルに徹したいなと、半ばそう思っています。
年代で言うと、僕は1975年生まれですので、大学に入って建築を勉強し始めて、ある程度物心がついた頃には、コム・デ・ギャルソンと言えば既にもう、ファッション界の大御所中の大御所という認識でしたね。改めて自分がコム・デ・ギャルソンに衝撃を受けたというよりは、いろいろな人の話を通して、コム・デ・ギャルソンのことを知ってきました。建築家の中でコム・デ・ギャルソンのことを話す人が非常に多いことにも気づきました。そして実際に、建築界ではコム・デ・ギャルソンを好きな人が多いと分かって来ました。特に僕の中だと、妹島和世さんという建築家とコム・デ・ギャルソンというのが深く結びついていて—−妹島さんがよくコム・デ・ギャルソンを着られるというのは有名な話ですけれども−−そのイメージが第一にくるんですね。逆に言うと、自分は何となくその中にどっぷりとは浸かっていけないなぁという印象を持っていました。ファッションにはもちろん興味はあったんですけれども、自分の興味は世代的にももうちょっとストリートの方、裏原とかアンダーカバーとか、そのあたりで起こる出来事でした。
でも、せっかくこういう話を頂いたので、自分なりにコム・デ・ギャルソンのことを、どういう風に見て来たのかな と、知らない時代のことは本を読んだりして、知識を補いながら見ていくと、建築的な思考と通じるところと通じないところ、重なるところと重ならないところが、それぞれあることがわかって、それについて考える事はすごく面白いなと思えるようになりました。
その観点から、コム・デ・ギャルソンを考えるという事が、特に建築に関わる者にとって、どういう意味を持っているのかということについて、この後話していきたいと考えています。
さて、この中では坂牛先生が、コム・デ・ギャルソンの80年代あたりのことをリアルタイムで一番よくご存知ではないかなと思うのですが、先ほどのパルコでの出会い以降、特に建築家としてどういう風に見られてきたのか、よければ話して頂けますでしょうか。
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