ちょっと前に『photo documentary nippon 2004-2006』gurdian garden 2006という若い世代の写真集の話を書いた。若いカメラマンを対象とした公募展に選ばれた15人のカメラマンの写真集である。そして、その中に風景を写したカメラマンが二人いてその郊外集合住宅の表層写真がホンマタカシと変わらないのであった。それはどうしてなのだろうか?郊外には表層しかないの?裏はないのか?
東と北田の『東京から考える』のによると北田は均質化したと言われる郊外住宅地に育ったそうだ。しかしその均質というのは大人の視点であり、子供時代はその中にいくらでも裏や抜け穴を発見して楽しんでいたという。それを彼は郊外の裂け目と呼んでいる。一方東の住んでいた青葉台にはそうしたものはなかったという。そしてどうもその後の郊外開発はこの裂け目を極小にする論理で作られているようだ。そう、やはり裏は消滅してきているのである。そしてこの裏が消えてきれいな表面が均質的に生まれる理由を東はポストモダニズムの多様化の論理にその一因を求める。誰でも来られて、だれでも使える、誰にとっても安全であるというのはポストモダンの多様化(使う側の)の論理であり、その論理は、security universal design sustainableとまとめられる。確かにこの3本柱は現代建築ではずせないお題目になっている。さてこの郊外の論理は「jusco的郊外」という呼び名も与えられているのだが、それはいまや都会を侵略しているという。都会というのはここでは二つの状態を指している。ひとつは伝統的な街区であり、もうひとつは劇場的(シミュラークルな)な街である。ここに「jusco的郊外」が侵略してくる。この「jusco的郊外」とは北田の言葉で言えば「ある空間を意味に基づき調整するのではなく量的に捉えモノと情報のアーカイブをつくる」もののことである。つまり僕なり簡単に言えば、街は味わうものから必要な情報を摂取する場へと変貌しているということである。そういう意味合いおいて北田はヒルズを「jusco的」と呼ぶのである。
あー説明するのに疲れたが、つまり冒頭記した郊外に裏はないのか?という僕の疑問には「無い」という答えが二人から得られたし、その原理が都会にも侵入しているということのようである。
急に娘の話だが、12歳になる娘に誕生日とかクリスマスとかにプレゼントをせがまれ、それでは買い物に行って食事でもするかというとネットで買うという。街は味わうものどころか、情報の摂取どころかもはや不要になっているのでもある。
建築家のように作る人間からするとちょっと困ったことでもある。情報化時代に物理的環境としての建築は不要という巷の議論にイージーに与するつもりはなかったがもはや無視できる状況でもないのかもしれない。
伝統的街区を残すことに血道をあげる気はないし、シミュラークルな街はまして作る気はしない。かといってjuscoシティにも興味はない。そうなるともはや作るものはないのである。『10+1』の都市論のテーマはついに直近(139号)のものになると「いまや都市や東京について語るこの意味が分からない」というところまできているとのことだが、建築版で言えば「いまや都市や東京の中で建築をつくることの意味が分からない」というところまできているのかもしれない。
というのはまるで冗談である。社会学者の理屈はやはり使用する側の論理だなあと思う。物理的構築物には作る側の論理みたいなものも絡み合っている。それは建築家の意思のようなもののことではなく、そこにいやおうなしにはいってくる建築、クライアント、施工者の経済学的、心理学的、工学的論理みたいなものである。そういうものは使用者の論理とはまた位相を異にする部分がある。だから彼らが言うほどシンプルに均質化した郊外的都市はできないのであり、それゆえ僕らにはまだやることはある。しかしてそれはなにか??今度のシンポジウムまでに考えておこう。