原型をめざすか、ヴァリエーションを求めるか

自分の中に仮想敵をつくり出せるか

 鈴木  建築の教員をしていて感じることがあります。最近の学生たちは住宅、特に集合住宅の設計をやりたがる傾向があるのですが、それが今までと違う。家族というものを単位にしない集合住宅を考えようとする。で、何をやるかというと、閉じられた個室をやたらと数多く並べたりするわけですね。家族は、たまにその個室から出ていって会えばいい、そういうロジックをたてる学生が多いのです。そんなに閉じられた個室ならば、どこか遠いところで独りで住む家を建てればいいじゃないかというと、やはりそうではなくて集合はさせたい。それを見ていて思うのは、おそらく彼らは(ぼく自身も含めてかもしれませんが)基本的に情報を共有したいし、情報があふれている中にはいたいんだけれども、しかし同時に閉じてもいたい。こうした欲求の構図はいま出ているナルシシズムの空間にも近いところがある。こういうところに今の「個」の気分が共有されているように思います。

 篠原  奥野建男さんの「原風景論」は70年代はじめに建築家に影響を与えた言説ですが、原っぱと洞窟という明快な二者択一が議論を建築を含むさまざまな現象に拡げさせた。そのような「0、1」の単位デジタルだったから力を持った。今はその手立てはない。単純な一つに収斂していくものがない。そして携帯電話は原っぱよりも身近な問題だけれども、あれは社会化の方向よりも個人の内側に関わっていく。どんな群衆の中にいても自分の身の回りのことをそこで持ち込むための器物になっている。第二次世界大戦敗戦の頃だった、哲学者、三木清の「孤独は群衆の中にある」という言葉が好きで今も覚えている。彼の孤独のその先は覚えていませんが、私の場合は、個に至った認識をどこかの地点で、その内部に含まれた力によって方向を反転させ、社会との新しい関係を提示するというプログラムです。私の住宅設計のある文脈と重なります。私は街を歩くのが好きなのですが、それは旅行者のように通過するだけで、たまり場は持たない。そういう点では個が好きなタイプの建築家に入るけれども、完全にすべてを断ち切って内向することはなくて、徹底的に個まで持っていってそれを反転する。
 しかし、今、若者が関心があるソフトな個は、方法を自分に引きつけたところで完結していく。それは、もしかしたら数多くつくっていき、そしてそれをつなげていく、という私にはない方法が、次の方法の原型になるのかもしれない。さきほど、コミットかデタッチかを質問したのはそのような文脈からです。
 これからは小空間が残るという条件よりも、小空間は最初に消えてしまう条件の方が強いのではないか。個と向き合った小空間こそ残る、というのは一種の正義論です。今それを支える確実な理由もないのにそれを信じるんだから、ほとんど宗教。さしあたり教祖(笑い)。でも、何かが、そこにあると思う。問題が少しずれますが、音楽がテープやCDに吸収されていって、音楽ホールの重要性というのは消えていくかもしれない。しかし、まだ建築の世界に入っていなかった頃見た「オーケストラの少女」という映画で、指揮者あるいは演奏家の不思議な身振り、それも音楽の一つの属性であって、そこにも意味がある。

 坂牛  指揮をしながら歌う人もいる。これはCDになると消えてしまう。でもそれを聞きたいからホールに足を運ぶ人もいる。情報がパッケージ化されるとどうしてもノイズは飛ばされてしまう。でもそのノイズの中にも人が欲しているものはあるし、それを残してあげるというのが情報化時代の建築だと思うのですが。

 鈴木  大空間というのは、人の意識についてはともかく、肉体は消し去るものです。簡単に言えば、CDで聞くのもテレビで見るのも、遠くの方で歌っているのも見るのもほとんど一緒ということは言えると思うんですね。しかし、小空間であれば、歌っている人のマイクを通さない声や息づかいが聞こえてきたりする。今、若い人の中に唯一残っている音楽はダンスミュージックですが、こうした、肉体というものが出てこざるを得ない表現が、これから先も残るかもしれない。身体、肉体に関わるものだけが、最終的に残る。
 ただ、その時に、住宅が身体に結びついたものとしてあり得るのかどうか。それとも住宅ではなく、もっとコンビニエントなスタイルになってしまうのかもしれませんね。キッチンがなくても生活はできるわけで、それを住宅と呼べるのかどうか。どうなるのかわかりませんが、いずれにしても、身体、あるいは身体に基づいた人間関係というところの空間だけは残っていくと思うんですね。逆にいえば、大規模な空間もそれをうまくつなげていくことでつくれるんじゃないか。大規模な建築も小さなものの集合であるとすれば、小さな事務所にもやる仕事は残っている(笑い)。

 篠原  50年代の機能主義は身体論という言葉は使わなかったけれども、例えば池辺陽さんの方法は身体論的な機能主義だったと思う。透明な身体論だったけれど、今は身体論でもすぐ精神論が出てくる。精神論が出てくると、伝統もそこに入ってくる。もう一度モダニズムの原型を通り抜けるという手続きでも精神論が入ってくるでしょう。前に触れたように戦後の変動期、建築家は本当の意味で家族制度、社会制度にぶつかってきたわけではないし、それはあり得ないわけです。それをやっていたら住宅などはできるわけはなくて、個対社会という部分はかなり曖昧にしてきたわけですが、今はそれを気軽に語り行動することができる時代にもなった。例えば今のファッションも、新しい古いは関係なくて、不思議な個に向かいつつある。そこにあるような個が、建築のこれからの具体的なステップのどの部分に参加してくるのか。今の「個」は、そのままでは「だらしな系」の風俗論になる。何をやってもいいという文脈と、すべてのものは消えていくという文脈が重なる。そうすると、東京というのは世界で一番素晴しい都市だということになる。ハードなものの意味が希薄になって、ソフトなものだけで生き生きとやっていけるとすれば、東京くらい舞台が整っている大都会はない。増設も、排除も、簡単にできる。電柱でさえも実に見事なファンクション。私の1960年代の「東京の混沌の美」はこのソフト系の機能を予測していたものです。間違いのないようにお断りしておけば、電柱の林立を「混沌の美」と言っているわけではなく、それも一つの日本の都市の現実、あるいは特性として眺めているという意味です。

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