原型をめざすか、ヴァリエーションを求めるか

個と全体の対立が希薄な中で新たな空間の力をどう生み出すか

 鈴木  今の50歳以下、つまり全共闘未満の人たちは喧嘩の仕方を知らないと言っても、まあいいでしょう。そういう意味でいうとこれから先、われわれの次の世代が闘いの仕方をもう一度覚えるとも思えない。社会へのコミットに関しては絶望的かなという気もします。逆にいえば、コミットできる範囲でやるしかないわけだから、やっぱり小規模だ、ということになる。

 萩原  その時に、素朴な意味で空間の力という問題が再浮上するのではないでしょうか。何がこれから空間の力として意味を持ち得るのか。建築家もつくる前にいろんな情報をヴァーチャルに知ってつくっていたけれど、おそらくこれからはそういう単純な縮図だけでは、原型はもちろん、ヴァリエーションすらつくっていけないのではないか。小さい建築の可能性があるとすれば、人間の知覚領域まで踏み込んだ空間の力まで分析がなされたものが出たときに、新しい展開があると思います。例えば、パースペクティヴに変わるような問題、山を歩いているといつも思うんですけど、歩きながらでも、空中から俯瞰した時でも、戦後の人工林と太古からの自然林とは一見してわかる。前者はグリッド状で均質に見えるんだけれども実は高さも植生もバラバラ、一方後者は平面的にはランダムなんだけれども、それぞれの植生は均質に確保されています。ある意味ではパースペクティヴ、個と全体の関係性は時間によって逆転するものだとも感じます。

 篠原  以前のような「個」と「全体」の対立関係がなくなっている。今の携帯電話グループというのは、初めから「個」未分化のままの「集団」との連帯がある。その集団と個というのは、かつてのクリアーな対立の構造を持たない。絶えず時代は平板な方向へと進んでいる。文化的事象を熱く受け取るというようなことは、もはやあり得ないのではないか。絶えず醒めている。建築も醒めている。今は、制度といい、問題意識といい、社会意識といい、すべて平板化しつつある。強いリズムが起こり得ない。むしろ、それは幸いなんだろうと思う。そこからエネルギーを取り出す、その取り出し方が今までとは違うのではないか。

 萩原  われわれには、0にも1にも枝葉が存在している。単純に個だけでは何も起こり得ないけれども、0の何番と1の何番を選択して自分の中で結合して、まったく違う個になる可能性がある。0か1かというドラスティックな選択はできないけれども、やり方によっては0か1かを気にしているよりも、新しいものが生まれる可能性があると思う。確かに敵がいるという時代ではないけれど、ある意味では自分の中に敵を仮想する余地が残されている。それは個人で闘っても、組織で闘っても同じ条件で、どういう敵を自分で見つけるのか。その敵も、一つ見つけたらそれが一生の敵ではなくて、次の日、変えてもいい。そこが今の時代の現実性のある面白さで、それができるようになると少しずつ変わっていくと思う。
 モダンへの回帰についても、ポストモダンの後に一過的な現象としてはそういう現象があるように見えるけれども、そうだと決めつけることが危険だということも、われわれは前の時代から学びとったわけです。だから次に伝統かというと、そうではない。そういう思考方法が一番危ない行為だということもわかっている。今までの建築家のスタイルとしては日本の中でつくるというのがフィックスした条件に近かったと思うのですが、おそらくは日本の中でつくるという条件すらない状態で、新しい建築が生まれてくると思います。

 坂牛  確かにテーマは日々変化するようなところがあるし、0、1的発想では前に進めなくなっているのは事実なんですが、しかし、差異だ差異だと騒いでいても前に進めないということもだんだん実感してきたのではないかと思うのです。差異を強調するのと同じくらい、共有するモノあるいはコトを探すことが必要だろうと思うのです。その時に重要なのは何か大きな技術や大きなプログラム変更、あるいは大きなイズムへの傾斜といったことではなく、もう少し日常性の中に垣間見えるさまざまなコト、特にその中にある非日常的なことや不条理といったことに目を向けていくしかないように思います。その一つが、個人の日常的欲望のレヴェルでのデタッチからコミット、篠原先生の言葉でいえば、連帯という意識ということのように思います。

 篠原  社会の人々が持っている好みが変わっていくというのは、全世代が一斉に変わるわけではなくて、それは一番若い世代に端的に表れる。その時に、どの辺の部分を押さえて、社会の動きとして見るかは戦略としてかなり重要で、それを巧みに取り扱うのがファッショナブルなデザインの動き方だと思う。しかし、一方、社会の表層にあるヴィジュアルなものを建築に巧みに取り入れたときには、社会の表層が変わるとアッという間にその効果は消えていく。その辺のスタンスの取り方が問題なのでしょう。

 鈴木  繰り返しになるけれど、もう一押ししておきたい。モダニズムの最大の問題点は、極端な一般化とか、個を抹殺するような論理です。自由などの普遍的な価値を求める一方で、何か個というものが消えていくような仕掛けというものがモダニズムのどこかに隠されていたはずで、それをとにかくもう一度問題にしようということが、ポストモダンの議論にはあったと思うんですね。モダニズムにはいろいろ問題があった。ポストモダンはそれをもう一度意識の上にあげようとしていた。ところが、いろいろな事情、それはバブルの崩壊というようなことも大きいと思うのですが、とにかくポストモダニズムはもうだめだ、ということになってしまった。ポストモダニズムの中の歴史折衷主義みたいなものは、これはどう見ても出口のない話ですからどうしようもないのですが、しかし、それと一緒にモダンに対する批判が消えてしまうというのはどうにもおかしな話です。それで今、もう一度「モダニズム」だ、「モダニズム再評価だ」といいながら出てきているのが、まあ、モダニズムの理念も何もないような、ファッショナブルな、軽やかな四角形。例えば、レムのスタイル。単なるスタイルとしてのモダニズムを、皆と競って模倣しているわけです。コールハースの批評的視点が「レム・スタイル」になってしまうのでは、コールハースもお気の毒です。
 ミース・ファン・デル・ローエは、もちろん、誰もが否定し得ない偉大な建築家で、何を引き継いでいくかというのは考えなければいけないけれど、それを批判的に見るというのは次の世代に残された責任なわけですから、それはやらなくてはいけない。無批判に模倣したりアレンジしたりするのは、歴史に対する責任を放棄するのも同じです。
 今日の話題の大組織や大規模建築に結びつけて言うならば、大組織も、個人も体制に組み込まれているわけだから一緒ではありますが、先に述べたような一般化されたかたちのモダニズムの力が強力に表れるのが大組織であって、そして大空間であり、大規模建築です。だからこそ、もう一度小規模建築なんだということを言いたい。つまり、モダニズムが本当に理想として掲げていたものをちゃんと検討するには、それこそミースのシーグラムビルから見るのではなくて、やはりファンズワース邸から見るべきだし、コルビュジエもシャンディガールではなくて、もう少し小さなところから見ていくべきではないか。

 篠原  そのモダニズム再批判は面白いから展開していくといいですね。

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