|
原型か、ヴァリエーションか
萩原 鈴木さんに質問したいのですが、個と全体というときに個人と組織という言い方もあるし、空間としてのリアリティの中の個と全体もあると思うのですが、「個」を重視するということをもう少しかみ砕いて下さい。
鈴木 それは単に現れ方の違いで両方だと思います。いずれにせよ重要なのは、一般的な問題としてとらえるのとは違う方法で考えなくてはいけない、そこに「個」の問題が必ず現れてくるはずだ、ということです。ところが、言語や建築言語によって、問題を数量的に、あるいは集合的にとらえようとすると、「個」の問題は必ずといっていいほど、すり抜けてしまうようになっている。例えば東京フォーラムでは5000人の劇場をつくっていますが、どう見ても現代の日本の文化状況では今から5000人のホールをつくっても仕方がない。本当は、そのことには誰もが気がついている。ポストモダンで一番言われたのは多様化ということです。多様化というのは、「数量化」「集合化」を拒否し、逆の方向へ向かうベクトルのことです。このベクトルについては、多くの人がさまざまな角度から言及したはずです。しかし、その割には100人、200人の素晴らしい小屋というのはなくて、結局何千人も入るホールや何万人も入るドームをつくってコンサートをやるという話にしか、文化の発想がいかない。多様化の「た」の字も見られないような状況です。これは一体どうしたことなのか、という素朴な疑問がぼくにはあります。とにかく一般化し、一般的な問題、全体としてしか考えられない、あるいは考えたくないということが、この時代、この社会にはあるんだろうと思うんですね。しかし、ぼくはこの傾向を拒絶したい。
モダニズムにおいて原型をつくるというのは主体的な作業だと思います。コルビュジエのドミノ・システムにせよ、ミースが示したドローイング、あるいはファンズワース邸にせよ、原型をつくり、さらに「これはいろんな展開が可能ですよ」というふうなつくり方だったわけです。個でもあるけれど、一般化もできますよということだったと思う。これを現在の状況に置き換えて考えれば、新しい原型をつくることを探究するか、それとも原型とは呼べないようなものでもって何かをやるということに賭けるか、その辺りが方法としてあり得るんじゃないかと思います。
篠原 原型に対して、変形をたくさんつくるという方法が一つある。原型を一つつくって他のものはつくらないというミースのような方法もある。私の場合はたくさんつくることに関心を持っていない。しかし、ヴァリエーションをつくるという方法も、一つの闘い方かもしれないとは思う。
鈴木 例えば、妹島和世さんは素晴らしい建築家だと思いますが、妹島さんは原型をつくりたいのかどうか、聞いてみたところがある。もちろん、つくりたいといってすぐにつくれるものではありませんが。
萩原 これは直感ですけど、妹島さんの建築は距離を置いてみると実は原型ではないのかもしれない。しかし、その文体は今までにないものがある。小説家の鈴木さんの前で文体と言うのもなんですが、今、すごく興味があるのは、われわれは言語を発明する時代にはいない、ということです。それを認識しないと次のステップは出てこないのではないか。
今、私は大きなオフィスビルの設計をやっているのですが、実はオフィスのあらゆるヴァリエーションがこれまでに考え尽くされているんですね。ですから、クライアントもすべてのいヴァリエーションの良さ悪さをわかってしまっていて、そこで建築家は何をするのかというところで、大きな問題を立ててももう先へは行けない。完成されたあらゆるヴァリエーションの中からどれかを選択せざるを得ないわけです。選択の中で問題を提起していく、闘争を仕掛ける時代に入っている。先ほど篠原先生が、小さな空間が建築を再び包含し得るとすれば新しい時代のスタートの予感がするとおっしゃいましたが、まさにそれは建築の規模に関係なく起こりつつあることかもしれません。
篠原 大きな架構が次々とできていますが、その感じは1970年の大阪万博の時とはちょっと違う。私は楽天的な技術主義とは遠く離れていますが、あの時はお祭りとしての楽しさが感じられた。私は関心はなかったのですが、ある新聞にコメントを求められて見に行きました。日本の祭礼のような不思議な雰囲気、懐かしい風景でした。スイス館だったと思う、完全なミニマリズム、キューブの外観でさえも、今思うとモダニズムがまだ原型の活気みたいなものを失わずにあった。丹下健三さんのお祭り広場でも、人間と巨大架構との関係が和やかで、非人間的ではない。懐かしいような風景、子供の頃にどこかで見たような。でも、多くの人たちが指摘していたように、祭りが終わった後、空虚感が漂った。
今、鈴木さんが言われた、東京フォーラムのような巨大建築ではない「個」の問題。それが若い世代の、ある種の連帯感のようなものとして断片的に出てきたときに時代が変わると思う。
今は、住宅の中に、大きな建築の中にある手法のミニチュアがたくさん入っている。方向が反対なんだな。ミースとかコルビュジエの住宅を発展させた大きな建築が彼らの後を追った。今は逆です。ものわかりが良くなったクライアントたちの寛容な、何やってもいいですよという励ましのもとに、建築家は大きな架構ですでに繰り返された手法のミニチュア版を住宅の中で再現している。その技術はすでに試されているから失敗はない。だから、穏やかな情景が続く。
鈴木 第4回建築会議の岡部憲明さんと妹島さんの話の中で、「ポンピドゥー・センターのフレキシビリティ」という話題に、どうも妹島さんが乗り切れていないな、という印象を受けました。フレキシビリティというような言葉が出てきたときに、大きな空間の中でそれを考えようとする建築に対して、個人的なところでフレキシビリティを保証しようという建築もある。例えばワンルームにおけるフレキシビリティという方がむしろわれわれにとっては実感がわいてくることなのかなと思います。妹島さんの「戸惑い」は、そんなところに理由があったのではないでしょうか。
篠原 ポンピドゥー・センターのフレキシビリティというのは、すごい技術だと間違いなく言える。それを可能にするために、膨大な地下室もあるという。しかし、もしあれの何百分の一の小さな規模だったら、あのような結果を得たかどうか。ミースのファンズワース邸は、誰が名付けたのかわからないけれど、ユニヴァーサル・スペースという言葉のプロトタイプが持っている迫力がありました。ポンピドゥー・センターのフレキシビリティというのは、小さいものの中でどのようにうまくまとめたところで、そのものの迫力は出ないだろうね。
鈴木 それこそ携帯電話とかコンピュータとかいったものの存在が当たり前の今の若い人たちにとっては、むしろ小さな空間でのフレキシビリティの方が実感を持ったフレキシビリティで、そこから新しい原型が生まれるのかもしれない。
|