原型をめざすか、ヴァリエーションを求めるか

ミースもナルシスト?

 坂牛  情報化時代がどんどん突き進んでいくと、ハードな建物は不要になっていくという話があるわけですけれども、一方で人間として生きていくためには、コンピュータの末端と情報源だけのサイクル系の中だけでは生きていけない、という情況もある。そうしたときに人がハードな殻に何を求めていくかというと、個人個人がリアリティのある生活の中で実際に何を求めているかというあたりが鍵になるんだろうと思う。その時に、情報化時代の中で癒されきれない人間が、空間の中で癒して欲しいという部分がきっと出てくる。例えば本を読むにしても末端で出てきた情報をクレジットカードで買ってプリントアウトするというようなことではなくて、この本がいいよというコミュニケーションと、そういうコミュニケーションをする原型的な空間が一人一人の周りにあって、それがどういうふうにつなぎ合わされていくかというところにすごく重要な鍵があるんだろうと思っています。つまり、カンニングです。人の行動を盗み見るようなことがとても重要になってくるような気がします。例えばオフィスでも忙しいからいちいち打ち合わせなんかしていられないけれど、あいつは何をしているかとか、部長は今ちょっと声をかけられるかとか、実は知らぬうちに盗み見ている。そういう意味で、個とその周囲の原型みたいなものができていくのではないかと思うのですが・・・・・・。

 篠原  「個」をどういうふうにとらえるか、手続きが見失われている。ミースやコルビュジエの頃の社会は、いわゆる第一次工業社会であり、非常に明確なヴィジュアルな時代だった。ところが、進んだエレクトロニクスがつくり出してくる様相を建築の方へ誘導する方法、例えばコンビニの配置の持つ意味を建築と結びつけていくその方法を調子に乗ってやっていくと、社会の変化の方が先。あるいはまた、情報技術の一つとしての携帯電話、その末端の器具デザインはほとんど問題にならない。ところがモダニズムのデザインというのはそこまで守備範囲としたわけです。ある時点で仮にこの技術と対応するうまい方法が成立しても、今のエレクトロニクスを前提とした技術は日進月歩、午前と午後で違うというくらいに変わっていく。現在の技術社会、経済社会の表層に浮上してきた現象と対応するようなデザインの原型がつくれるのかつくれないのか。

 鈴木  ミースが描いた空間においては、個は個でありながら、個が構成する全体がそのまま社会になっていく、あるいは個と社会がダイレクトにつながっていくという図式が見える気がします。一方で、今若い建築家たちが描こうとしている「個」は、それは近代的な「個」とは違うのかもしれませんが、ある意味で自閉的で、ある意味でナルシスティック。ナルシスティックでないと生きていけない、そういう感じがある。ナルシスティックというのは自分の中で閉じて行く感情です。社会から、あるいは共同体から切断したところでのみ、辛うじて成立しているような「個」の姿がある。しかし、自閉的なところでのみ成立する「個」とは幻想のようなもので、基本的にはあり得ないことなのです。やはり全体との関係、社会との関係を明らかにしないとどうしようもないんじゃないか。伊東さんが遊牧少女とパオとか言って、布のような建築を出したときに、それは軽やかで魅力的なアイデアだった。しかし、どうも伊東さん以降につくられていった伊東的な建築、伊東的な空間は、非常にソフトな自閉空間、ソフトなナルシシズムを秘めていたんじゃないか。それが衣服的でファッション的だからナルシスティックという単純な構図ではないのですが。今、こうしたプロセスを振り返って、これを批評的に考えることが必要だという気がします。

 篠原  「ハードなナルシシズム」に変化するのか、あるいはナルシシズムを変化させて、「ソフト」は残るのか?

 鈴木  少なくとも、「ソフト」なという方は残るように思います。他者との関係がどういうふうに取り込まれるのかはわかりませんし、携帯電話やコンピュータがものすごいスピードで進歩していくのを建築が追いきれるのかどうかわかりませんが、いずれにせよソフトとしかいいようのない関係がどこかで入り込んでくる。

 篠原  例えば携帯電話、それはソフトな技術、それがどんどん変わっていくでしょう。そのような事物、対象とは、ソフトな方法で対応しない限り、ハードな方法では初めからわかり切った結果しか出ない。そこでナルシシズムが動き出す。それは本能的な逃避術であるかもしれない。ナルシシズムは、相手がどう変わっても、自分は自分といって行けるところまで行く。最悪の場合、外との回路を閉じればいいわけです。
 昔、斜め読みした、心理学的な建築家分析の翻訳書に、世界的に有名な建築家に共通する要素はただ一つ、女性的であるという結論があった。とすれば、ここで、ナルシシズムとの重なりが浮上するかもしれない。

 萩原  ミースもやはりナルシストだったんでしょうか?(笑い) 建築家の本質としてミースがナルシストだったとしたら、なぜああいうヒロイズムが演出されたのか。ミースの軌跡を読み込むと、ヒロイズムで出ていく場合に、社会とか他者を自分の中に取り込んでいっている。

 鈴木  ミースが建築のある種の原型をつくって、それがアメリカに渡りフィリップ・ジョンソンに受け継がれて、ジョンソンがそれをインターナショナル・スタイルとして資本主義と結びつけて全世界に拡げたという言い方がありますね。現在全世界の都市を埋め尽くす勢いのアメリカン・モダニズムの流れとして、日本の大組織事務所の建築もある。そう考えると日本の大組織事務所の建築というのは、ミース的なものを受け継ぎつつ、ミース的なものから変形されたものと見るのが普通でしょう。それとも組織も建築家の持つナルシシズムの本質を持っていると考えるべきなのでしょうか。例えば、組織事務所の中で、ミース的なものがフィリップ・ジョンソン的なかたちでもってアメリカの資本主義と結びついたものとしてあるという意識はありますか。

 萩原  私個人としては後者に近いと理解しています。組織も基本的には個人の集団であるわけで、その個の表現と方法が問われている。極端にいえば「ファンズワース邸」までのミースと、それ以後の彼の作品は全く違っていて、みんな、「シーグラムビル」をベタ褒めしますけれど、あの全体の骨格を決めたのは実はアメリカ社会だという気がするんですね。その他者性に彼がうまく乗ったのかどうかわからないけれど、そういうかたちでナルシシズムが変貌していった。もし、われわれの世代あるいは建築家がナルシシズムだととらえられるとすれば、それぞれが他者と混血状態になったときに、違う展開、楽しいことが起こってくるのかなあ、という気がします。
 坂牛さんが1959年生まれ、私と鈴木さんは61年生まれですが、80年代、モダニズムのタイポロジーがほとんど出尽くした中で何か好きかという質問自体が難しい情況になってきた。だから、好きが嫌いかではないところでの議論の仕方をしている世代だと思うんです。

 篠原  好きか嫌いか、つまりオール・オア・ナッシングの選択ではない。われわれの世代は、この素朴な単位デジタル、好きか嫌いかを初めに言っちゃう。でも、今は単位デジタルは機能しない。

 萩原  多チャンネル時代ですね。

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