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2006年07月29日

束芋

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かみさんに誘われて、原美術館に束芋を見に行った。このアーティストは1975年生まれだから今31才。京都造形芸大出身で卒業制作「にっぽんの台所」が「キリンコンテンポラリーアワード1999最優秀作品賞」に輝いたそうだ。なんて知ったような書き方だが別に僕は全然知らない。どんな作品かといえば、持ち前のスケッチ力を生かしたアニメなのだが、色や筆致を浮世絵から流用している。そしてコンテンツは犯罪、盗撮、自殺、と日本社会の暗部をえぐるというものである。

見終わって、かみさんが「こういう分かりやすい現代アートは見たくなる、分からないのはノーサンキュウ」というので僕は「何を言ってんのか分からないのを想像するのも楽しい」と言った。その意味ではこの手のコンテンツが明快なアニメはコンテンツ自体も興味深いが、その技術力が重要に思えてくる。彼女がよく使う手法として正面と両側面を利用したアニメの見せ方がある。アニメの平面性がかなり立体的流動的になってくる。面白い見せ方だと思った。「アニメのようなもの、つまり商業エンタメと大文字のアート(そんなものあるのか?)の差は紙一重だよなあ」と言うとかみさんは少々考え込んでいる「でもその差があるんだよなあ、商業的なものと『アート』の差はある」と僕は言った。でもその差はなんなのだろうか?なんとなくそれは数日前再読してた佐々木健一の『美学への招待』でアートとは精神的なところへ届くものと書いてあったがそういうことかもしれない。でもそれなら宮崎駿は精神的なところへ届かないということなのか?うーんむずかしい。

2006年07月23日

コルの壁紙

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モダニズムは形式と質料という建築の二成分のうち形式性を重んじ質料性を抑圧した。そしてそれは美術一般と考えたいところだが、ちょっと違う。絵画ではグリンバーグの主張した抽象表現主義とは平面性、カンバス、そしてメディウム(絵の具)をその自律性の要素と考えたのである。メディウムとは正に質料である。マチエールである。絵画では質料性はさほどの抑圧を受けていない。しかし、彫刻のようなものを見るとき、例えばミニマリズムを概観すれば、それは形式性の浄化の末に出来上がったものである。それゆえにそこには素材性が現われたり、ランドアートに行ったりする。ジャッドだって後半はCOLORISTと言われるくらい色に狂う時期があるのである。形式性の抑圧が質料性に向かわせる。
同様にコルビュジエがカラーキーボードを作っていたという事実は最近発見されたし、サボワでもジャンヌレ邸でも行けばその多色に気がつく。しかしそうした色はまだデ・スティールやバウハウスなどの関係からして頷ける。しかしコルが壁紙デザインしていて、しかもそれらが大理石まがいの模様ものであったと言うのはちょっと驚いてしまう。

2006年07月17日

病(やまい)的建築

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この建物はモスのthe boxという1994年の作品である。場所はカルバーシティである。まあロサンゼルスと言っていい(ロサンゼルス市ではないが)。このあたりは工場や倉庫が沢山建っていて、ただでさえ人気の無いロサンゼルスの中でも更に人気が無い。夜来たらかなり怖いところである。
このボックスという建物はモスの暴力的な建築の作り方を象徴している。建物に穴を開けて何かを突っ込むという手法である。よく男性性を建築の中に見出すという議論があるが、そうした場合に出てくるのはどうもリテラルな男根崇拝のようなもので味も素っ気も無い。むしろモスのような作り方に無意識の男性性があるような気がするが。
まあそれは置いておいて前回の話の続きをすれば、ヴィドラーはこうしたモスの建築の流動性と内部外部の相互貫入がギーディオンのコルビュジェ分析をもとにモダニズムで完成されたバロックと捉えつつも、さすがにそれだけでは語りえず、最後にメランコリーへと繋げるのである。最近メランコリックな僕としては(去年からであるが)なんだか都市の病理はとても分かるしそれを癒すのはこうした病(やまい)的な建築だろうなあと感じている。しかしこんなのばっかりでも困るのだが。

2006年07月09日

モダニズムのバロック性

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以前ご紹介したアンソニービドラー(Anthony Vidler)近著の‘Warped Space‘MIT Press 2000の中にエリックオウエンモスのことを書いた`beyond baroque`という短い論考がある。ロサンゼルス建築を再び少し調べていてこの文章を読んでみて目から鱗である。この論考はモスの建築はモスが言うにはデコンでもポストモダンでもなくそれはモダニズムの発展形だという。そしてそのモダニズムとはギーディオンの説明したところのそれであるとのこと。
しかしいったい何故モダニズムとモスの建築が結びつくのか?ギーディオンはコルビュジェのサボワ邸に見られる時間性の概念をキュビズムとの関係で説明するが実はバロック概念も持ち出したのである。バロックが古典に比べて空間の流動性や時間性をその本質に具えているという把握はさすがヴェルフリンの弟子である。このバロック性をモダニズムの一性質としてモスはそれを引き継いでいるということのようである。バロック性となればもちろん意味するところは広がる。なんだか狐につままれたような話である。モダニズムは一枚岩ではないというのはよくある話だが、バロックまで引き受けていたなんて話は初耳であった。

2006年07月02日

第三空間

八束はじめが『10+1』のブックレビューでエドワード・ソジャの『ポストモダン地理学』青土社2003(原著1989)という本を紹介していた。ソジャのこの本はその後書かれる『第三空間』青土社2005(原著1996)『ポストメトロポリス』(原著2000未訳)と合わせて彼の都市論三部作と言われている。
八束のレビューを読むと『ポストモダン地理学』は時間偏重の歴史主義的社会学を空間の重要性に目を向けさせたという意味で空間論的転回の書として位置づけられている。そして二番目の『第三空間』を今日読んだ。『ポストモダン地理学』は読んではいないので正確なことは言えないが二つの書の目次を比べるとルフェーヴル、フーコーに棹差し、空間論の重要性に触れながら、ロサンゼルス分析をするところは双方かなり類似した内容なのかもしれない。ただ第三空間というタイトルが示すとおり、二項対立的な価値観においてどちらかに振れるのではなく3つ目の価値を大事にする。それはルフェーブルの生きられた空間(表象の空間)でありそれを参考に自らの第三空間を提案している。さらにフーコーはそれをヘテロトピア(混在郷)と呼んでいるようだ。
さて話は変わるがチャールズ・ジェンクスが1993年に`heteropolis`という本を書いている。副題は los angeles the riots and the strange beauty of hetero architectureと言うものでロサンゼルスの多様な社会と建築について書いている。言語、人種、文化、植生、気候全てが単一的ではなく多様であり、それによって多様性を許容する建築ができていると分析する。その中心が、ムーア(故)でありゲーリー、イズラエル(故)、モス、モルフォシスとなる。
ジェンクス、はソジャとともにUCLA で教鞭をとっており、ソジャ経由でフーコーのヘテロトピアの概念を適用しているのかと思いきやそうでもない、もちろん本書では双方への言及はあるものの、上記図書からの引用などはない。むしろソジャがロサンゼルスの中にジェンクスと同様のheterogenityを発見した上で二項対立で割り切れない第三空間を主張したと見るほうが妥当なように感ずる。