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素材
言語化した素材を救えるか?
素材性は質料の一部である。悟性で能動的に切り取る形式性(形)に対して,感性で受動的に受け取るモノが質料性(素材性)である。質料つまり、色や、肌理、と言ったモノは、感覚的な対象であり、その美的判定は10人10色という危うきモノである。故にカントは、質料を美の範疇に入れなかった。しかしこうした色や肌理、建築で言えば色や素材感というものが、本当に感性で受け取られているかというとそうでもない。すでによく知られていることだが言葉が感性的認識に介在し、人はコンクリート打放しを見てそれを「コンクリート打放し」という言葉で理解し、その言葉を受け取っているということはよくあることだ。
そこで、こうした言語的把握を零度にすることのみに意味があるとする立場さえある。つまり質料はすでに言語化された領域の中でしか、把握され得ないという考えである。
しかし果たして本当に質料は、言語的にしか把握され得ないのであろうか? 事態はそう簡単でもない。つまり、質料が言語的に把握される時は、その質料が通常存在する形で存在する時である。たとえば、豆腐で三角錐を作ったとする。このピラミッド型の白い塊を遠目で見れば、なかなか豆腐で出来ているとは思いにくい。大理石かプラスティックと思うのではないだろうか。それは豆腐は四角という風に思い込んでいるからだ。ちょっと昔、僕は高さ60mのオフィスビルを見学に行った。建物に近づくにつれて、コアの部分が灰色に見えてくる。灰色のタイル張りかと思ったが、近づくにつれてテクスチャーがもう少し細かく見えてくる。目地が見えない。どうもタイルではない。さらに近づく。どうもこれはコンクリートのようだ。しかし60mのコンクリート打放しは現実的ではない、違うものだと思いつつ目の前まで来てその色、Pコンの跡、そしてコンパネの割り、を見る。またテクスチャーを確認する。乾式のパネルでもない。その60mの高さとこの物質感に改めて見入ってしまった。もちろんコンクリート打放しであることを最終的に認識する。
豆腐もコンクリートも、ここでは言語的に受け取られてはいない。その理由は普通ある在り方では無いからである。豆腐やコンクリートの肌理や色が、普通ある形を持っていなかったからである。
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