窓を巡って

 さて、こうした形式重視の考え方が20世紀前半に崩れてきた。高名な哲学者によってプラトン以前へ遡ることが提示された。要は形相の持つ本質への問いから、存在への問いへと視線が変更された。この視線変更が、所謂脱構築の基盤となっていることは、良く知られるところである。

 この視線変更は、直接的間接的に建築界に大きな影響を及ぼした。形式から開放された建築は質料的、存在論的に動きだした。70年代の所謂ポストモダン建築は固より昨今のスイス建築に見られる素材主義は、形式からの開放により建築が質料と形式で成立しているという事実を再確認し、この質料に新たな光を当てているといえる。また建築を人間との関係あるいは、自然との関係、世界との関係、で問おうとする建築は存在論的な問題の立て方の現れである。

 質料漬けの頭の中はこんなことになっていた。つまりモダニズム以降のさまざまな問題が、質料を巡る問題として見えてきたのである。そしてこの質料性がさらにいくつかの展開と内容を持って、僕らに示唆を与えてくれるように感じた。質料という言葉を文字通りに質料自体と受け止めると、それは建築においては素材という問題だけに限定されてしまう。しかし実は質料という問題は質料・形式というセットの概念であり、質料が形式化されるその間にもいくつかの問題がある。そう考えてもう一度質料・形式という対概念をギリシャ的理解で見るならば、二つのことがらがひっかかる。それらは先ず作るものの見取り図、つまり全体の形式(形)が事前的に決定されているということ。もう一つは、その決定が制作者(建築なら建築家)によって行われるということである。つまり全体形ありきか、制作者ありきなのである。何故部分では無く全体なのか、何故享受者(住宅なら住人)ではなくて制作者なのかと素朴に疑問が浮かぶ。

 こうして3つの問題が徐々に意識され始めた。素材・形、部分・全体、享受者(住人)である。こうしたテーマは少なからず誰かがどこかで議論していたことであろう。だからテーマそれ自体がそれほど目新しいことだとは思わない。しかし多少これまでのこうした問題に対する議論で腑に落ちないのは、こうした対概念の反モダンの側面を単眼的に取り上げるスタンスである。質料・形式という対概念もこのどちらかの側面だけに偏るということが、そもそもの問題を起こしてきたのである。だから形式主義は駄目だから質料主義と言うなら、それは過ちをまた繰り返すに過ぎない。これはセットなのである。セットはセットとして扱わなければならないものである。だからこれらをなるべくセットで、表現のテーマとして繰り込んでいくこを考えないといけない。そしてこの質料・形式から生まれる主要な問題系を、一辺に一つの表現に繰り込んでいけないか。さらに、その表現を建築の一つの部位に集中させることができないか。こうした表現に向かう条件の作り方が、一見見慣れた質料を巡る問題を強度のある表現へ向かわせるのではないかと期待した。

 表現するものが先か、されるものが先かそれはあまり問題ではない。いずれにしても,いくつかの試行錯誤の末に窓を対象としてみようと思った。多分窓以外にも、その表現の対象はあるような気がする。しかし今のところどうも窓である。そして僕はこの窓を外部から内部へ、壁から壁へ、壁から天井へと延長させることにした。延長という方法が素材と形、部分と全体、住人という問題を浮上させていくであろうと考えた。どのように現れてくるのか? そのことについて、この後述べていこう。

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