7.
篠原一男『住宅建築』 紀伊国屋書店 1964年 p103
8.
篠原一男「建築へ」『新建築』1981年4月号 p140
9.
当時のテクスト論の総括は吉見俊哉の『都市のドラマトゥルギー』弘文堂(1987年 p6〜p15)に詳しいが、その代表作として街の表層を読み込んだものとして、槇文彦ほか『見えがくれする都市』鹿島出版会(1980年)。江戸との関係を扱ったものとして、陣内秀信『東京の空間人類学』筑摩書房(1985年)。地図、文学、歌謡曲のなかから東京像を描こうとしたものとして、磯田光一『思想としての東京』国文社(1978年)等がある。
また現在ではこの当時のテクスト論が自らの読みたい方向へ誘導されるきらいがあったとしていくつかの批判が挙げられている。テクスト論批判は吉見俊哉前掲書以外にも内田隆三+若林幹夫「東京あるいは都市の地層を測量する」,
毛利嘉孝「東京はいまいかに記述されるべきなのか?」、中筋直哉「東京論の断層」(いずれも『10+1』vol.12 INAX出版1998年)等に異口同音に述べられている。
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II 過剰都市
(1)中心の異質性/エネルギーの衝突#1
東京のヘテロジニティを異種のぶつかり合いという形で最初に注目したのは篠原一男である。氏は1964年の論文の中で、東京の混乱にいち早く眼を向けこう述べた。「現代の集落が表現するものは、しかし、調和した美ではなく、混乱した美であっていいのである」*7。また1981年には再び東京の混乱を参照しながらこう述べる「無計画主義の結果についてこれほど寛容な国は珍しい。……これを混乱として否定するのは容易である。しかし、ここまで到達した〈文化〉には正当な位置を与えられない」*8。
この二つの言説に篠原一男の先見性が示されているのは論を待たないが、一方この17年の時間経過の過程において篠原は混乱を美と断定する確かな手応えを感じ取っている。つまり前者において、断定的な予見を行い、そして後者において客観的に歴史を振り返りことの真偽を計っている。そこにはその正当性に対する直感から確信への推移が読みとれる。(念のため付け加えておくが後者の論文が発表された時点で混乱が一般に認知されるようになったということではない。そのころの東京論はもっぱらテクスト論*9であり都市の実体から混乱を評価したような言説を私は知らない。)
東京オリンピックの年1964年。高度経済成長にのっかった日本が爆発的に成長していく真っただ中にあり、東京では限られた空地の上に首都高速道路が都市のコンテクストとは何の脈絡もなく建設された。正に規制する側にある官が率先して無計画主義を実行した象徴すべき混乱の年であった。それから17年後1981年。バブル経済を前方に控え安定した経済成長の時代であり一方建築では安定したポストモダンの幕間時代であった。日本における歴史主義的ポストモダンは日本文化とは何の関係もなく、異化作用に則った商業主義と容易に接続しやはり規制のない日本のなかで一層の混乱を生み出していった。主として都心の商業地域でおこったこの混乱は自然発生的なものに加え無規制に乗じた意図的な商業的異化作用によるところが大きい。そしてこの混乱は単なる無計画的無秩序という度合いを遙かに超え良くも悪しくも新奇を標榜する個の群となり爆発的なエネルギーの衝突として我々に現象した。
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