可能性の包容

5.
Maggie Toy, Invention and reinvention in LA, ≪WORLD CITIES Los Angeles≫, Academy Edition, London, 1994, p127

6.
Edward Soja はこの単語を次のフォーラムの中で使用している。
Edward Soja with others, Academy International Forum Learning from Los Angeles ≪WORLD CITIES Los Angeles≫, Academy Edition, London, 1994, p48
(5)希薄なアクティビティ/ヴァーチャルストリート

 骨格が希薄なのは、骨格を骨格と思うような意味を人々がそこに産み落とせないことにも起因する。そしてそうした意味の欠如は、人々が車で移動することによるところが大きい。自分の足で都市を感じ、人と出会い、会話するというような行為がこの都市の中ではおこり得ない。

 こうした人々のアクティビティと出会えない事実を象徴しているのが、ロスアンジェルス北部ユニバーサルスタジオにジョン・ジャーディーが設計したシティーウォークというハリウッドを模した街並みである(図10、11)。その名が如実に示すとおりこの施設は正に都市での散歩を実現するためのものである。逆に言えばこうした施設を作りそこにアミューズメント施設を併設しなければ人が集まってアクティビティが生み出せないということを証明している。現実のハリウッドの街並みでは、ロスアンジェルスの他の場所に比べ、観光名所であり人々も多い。しかしその量はこのシティーウォークで実現されている量に比べれば、取るに足らない。人の賑わう夕方から夜半にかけてハリウッドブルバードに行けば大量の車がヘッドライトをこうこうと照らし渋滞しているが歩道を歩く人間の数は少ない。夜のハリウッドを歩くのは気持ちの良いものではない。何かしら身の危険が漂う。車社会の現実がそこにはある。交通事故はイコールその後の犯罪を招くといわれる*5とおり、車というシェルターがいつしか利便性を生む道具としてだけではなく、身を守るシェルターとして機能するようになっている。こうした街では都市体験がシティーウォークの如く、ヴァーチャルに作り上げられざるを得ないし、そうした施設に人がこぞってやってくるほど、この街の人間にとって、都市のアクテビィティ体験がもの珍しいものなのである。

 ロスアンジェルスにおいては都市といわれるもの一般に備わっている属性が希薄である。すなわちこの都市は都市と今まで言われてきたものが持つべき要素をある部分で失っている。にもかかわらず、経済的、政治的には都市と呼ばれるものに分類されている。しかし言うまでもなくこの「希薄な都市の空気」が帰結するものは古典的な都市の対概念である、農村ではないし、最も表層的に近似している点からよくそう呼ばれるところの「郊外」という概念ともどこか異なる。なぜならこの都市には周縁としての郊外に対する中心がないからである。こうした都市を敢えて何らかの名で呼ぶとするならばエドワード・ソージャの言葉を借りれば、CITY-WITHOUT-A-CITY*6〈希薄都市〉ということかもしれない。

 ここでロスアンジェルスを立体的に投影する意味で東京との対比を試みたい。と言うのはロスアンジェルスに欠如するものを逆に過剰に内在させる都市が東京だからである。そしてその内容は世界的に見てもその対極にある都市と言って過言ではない。

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