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2006年04月29日

A0の次の教科書を探す

私の事務所ではA0なる建築勉強会をしている。その勉強会で『言葉と建築』を訳したのだが、別に僕達は翻訳集団ではなく、ただの勉強集団である。やっと本も出て、年度末の忙しいことも過ぎ、4月からみなの進路(つまり就職とか、転職とか、進学とか)が決まり、次は何読もうかと考え中であり希望を集めたところ下記のような本が集まった。ブルータスよのお勧めする本よりか少し面倒くさい本が集まったがどうだろうか?この中の本を読んだことがある人はご意見ください。

●Robin Evans Translations from Drawing to Building and Other Essays (AA Documents S.)292 pages
http://www.amazon.com/gp/product/187089068X/qid=1146289147/sr=1-2/ref=sr_1_2/103-1682814-0359024?s=books&v=glance&n=283155
ushi 建築の革新に対する社会の役割など,AAスクールの本でムスタファヴィ(AAの元学長)の序論がついている。おもしろそうなのだがまだ内容が計りきれない。

●Joan Ockman Architecture Culture : 1943-1968464 pages
http://www.amazon.com/gp/product/0847815226/
井上 戦後~68年までの建築批評、マニフェストなどのアンソロジー
uahi 68年までというのが少し寂しい68年以降はヘイズにバトンタッチ

●Michael Hays Architecture Theory since 1968824 pages
http://www.amazon.com/gp/product/0262581884/
井上 68年以降の建築批評、マニフェストなどのアンソロジー。
ushi 読破できたら嬉しいがなにせ824ページ

●Neil Leach ed. Rethinking Architecture; Reader in Cultural Theory
409 pages
http://www.amazon.com/gp/product/0415128269/
井上 20世紀の建築批評のアンソロジー。現代思想系が多そう。
ushi ハイデッガー、ルフェーヴェル、デリダ、ボードリヤールとビッグネームが総勢10名以上。古典。

Theorizing a New Agenda for Architecture : An Anthology of Architectural Theory 1965 – 1995384 pages
http://www.amazon.com/gp/product/156898054X/
井上 同じく65~95年のアンソロジー。
ushi 筆者はチュミとアイゼンマンが4本ずつ書いているが、私はこの二人はそんなに興味ない

●Oppositions Reader
701 pages
http://www.amazon.com/gp/product/1568981538/
井上 『Oppositions』という建築理論誌に載った論文のアンソロジー。
ushi IAUSの論文雑誌のアンソロジー。内容はちょっと古い気もするが。

●Massimo Cacciari, Architecture and Nihilism : On the Philosophy of Modern Architecture http://www.amazon.com/gp/product/0300063040/
Ushi 内容はかなりロース。ロースの現代価値はあるか?というところか

●Joseph Rykwert, The Dancing Column: On Order in Architecture
624 pages
http://www.amazon.com/gp/product/0262681013/
ushi 身体論的な話もあるのなら面白そう 600ページ強というのは一つのテーマだと飽きそうだが。

●Jonathan Hughes  Non-Plan: Essays on Freedom, Participation and Change in Modern Architecture and Urbanism243page
http://www.amazon.com/gp/product/0750640839/qid=1146280185/sr=1-2/ref=sr_1_2/103-1682814-0359024?s=books&v=glance&n=283155
ushi シチュアショニストの建築への影響

●Vidler, Anthony Warped Space: Art, Architecture and Anxiety in Modern Culture 316 pages
http://www.amazon.co.uk/exec/obidos/ASIN/0262720418/qid=1146281096/sr=1-2/ref=sr_1_2_2/202-6294551-4520653
ushi ヴィドラーの最新本

●Colomina, Beatriz Sexuality and Space 288 pages
http://www.amazon.co.uk/exec/obidos/ASIN/1878271083/ref=pd_sim_b_dp_1/202-6294551-4520653
ushi フィルム、写真、その他のメディアなどその他の分野と建築との関係。アマゾンではこの本と『言葉と建築』を一緒に買うことを勧めている。その理由はメディア?

●Liane Lefaivre Emergence of Modern Architecture: A Documentary History, from 1000 to 1800 416 pages
http://www.amazon.com/gp/product/0415260248/qid=1146282348/sr=1-7/ref=sr_1_7/103-1682814-0359024?s=books&v=glance&n=283155
ushiかなり本格的に建築史の本のようだ

さーてこの中でみんなで読んで楽しそうなものは私の主観で選べば
1位は ニールリーチ編のアンソロジーRethinking Architecture; Reader in Cultural Theory 409 pages 
量はたっぷりあるし、内容もかなり濃そうだが目次を見ると10ページくらいの論考が延々と35本くらいあるまその中から面白そうなのを10個選んで一回一本づつ読んで一年。著者は哲学者が多いが彼等の語る建築は幼稚で表層的なことも多いのでやや心配ではあるが。ただこれは売れるかもしれない。ちょっと哲学をかじりたい物知り顔のアカデミック系建築家とかコンセプチュアルになりたい学生には向いているかもしれない。

2位はコロミーナのSexuality and Space 288 pages
200ページ代だとほっとする。でもコロミーナですから内容はしっかりしてそう。メディアと建築なら彼の右に出るものはいないだろうし、読んでみたい。ただアマゾンで目次が見れないので内容がつかめない。

3位は ルフェーヴルのEmergence of Modern Architecture: A Documentary History, from 1000 to 1800
これは売れる本のような気がする。モダニズムの出現を千年前に見るというのが新しいのとかなり綿密に事典のように人を追っかけていそうなので『言葉と建築』のように美術史的価値がありそうだ。やはり1位と同様にアカデミック系建築家が飛びつく。

というようなところです。さあA0の人もそうじゃない人も意見いただけると嬉しいのですが。

2006年04月23日

岡本太郎美術館

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Skeleton,2003 photo: Keizo Kioku

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My Grandmothers “Sachiko” 2000 86.7x120cm © Miwa Yanagi Courtesy Yoshiko Isshiki Office

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My Grandmothers “Sachiko” 2000 86.7x120cm © Miwa Yanagi Courtesy Yoshiko Isshiki Office
無題I 2004 100x140cm © Miwa Yanagi Courtesy Yoshiko Isshiki Office

牛に引かれて善光寺ではないが、誰かに誘われないと行かないような美術館がある。千葉県立とか川村とか。岡本太郎もその一つ。
向丘遊園からバスに揺られて10分、専修大学で降りてさらに10分。しかしよく見るとここは日本民家園の隣、幼少の頃学校の遠足できているはず。

昨日、ニューヨークのジャパンソサイエティの友人から電話があり「表参道ヒルズ行かない?」と言う。うーん興味ない。と言っていたらもう少しして電話が来て「岡本太郎美術館行かない?」と言う。ネットで見ると「ヨーロッパ巡回帰国展 CHIKAKU ―四次元との対話―」
~岡本太郎からはじまる日本の現代美術~展をやっている。出品は岡本太郎・中平卓馬・森山大道・中村哲也・笠原恵実子・須田悦弘・杉本博司・日高理恵子・渡辺誠・森脇裕之・小谷元彦・伊藤高志・やなぎみわ・草間弥生・トリンミンハ。巨匠だけならいまさらという感じもするが若手の面白いのも多いので行くことにする。

彼女のお勧めは小谷元彦という彫刻家。ここにはskeltonという鍾乳石のような彫刻がぶら下がっている。屈託無く割と形をストレートに出すのだなあと感心する。それは若さにも関係するのだろうか?椹木野衣は世代論的にこう言う「小谷は、村上がこんにちの状況を、すべてのジャンルが横並びで交換可能となったという意味で「スーパーフラット」と名づけた、そのことばすら必要としないくらい、あらかじめ「スーパーフラット」に生まれついた、おそらくは最初の美術家なのだ」なるほど、フィギュアを作ってポップとシリアスの境界を意識的にフラットにする世代に対して、彼は最初からそんな境界はなく屈託無く自らの好む形に素直に接近できているのではなかろうか?

やなぎみわ もよかった。もう十分世界的な方のようだが、僕は本物を見るのは初めて。93年から制作しているエレベーターガールズで有名になったようである。友人に言わせるとそれはあまり面白くなかったが、今回の作品は面白いという。上記無題の写真とビデオ作品が展示されていた。ビデオは砂漠の向こうから顔を隠した老人とも少女ともつかぬ人が少女の服を着て歩いてくる。どんどんこちらに近づきいきなり隠していた顔を見せるかなと思う寸前で終わる。また老婆にメークアップした二人の少女が遊んでいて最後に走り去る。なんとも不気味でこっけいである。
さてこういう作品あるいは現代アートの特にメディアものはテレビ企画と紙一重だと僕が言うと友人はしかし最後の一線でアートにするのがアーティストと言う。僕もそうは思う。杉本博司の写真のところで彼女は言う。「杉本さんなんかはその意味でテレビ企画ではない昔風の本当のこだわりのアーティストよね。例えば印画紙とかにもすごいこだわりがあるのよ。彼の満足いく印画紙作っているところは世界に一社しかないのだから。それでそこの印画紙これから数年分全部買ったって言っていたわよ」と言う。六本木で見たときもまあ凄いとは思ったが、そういうことを聞くと、かなり信頼してしまう。

2006年04月16日

景観規制

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国会.jpg

迎賓館.jpg

絵画館.jpg

最初の地図は東京都のホームページに載っているもの。都の景観重要誘導地区を表しており、それは国会、迎賓館、絵画館である。
この話知ってる?去年の11月の新聞に出ていたと思うのだが絵画館の後方新宿区大京町に建つ予定だったマンションの建て替えに都が待ったをかけた。重要な建物の後ろにそのシルエットを乱すような建物が立ち上がるのは好ましくないとのこと。都の景観審議会の議論の一つにそうした重要な建物の選定がある。そしてその中でも三つの建物、国会、迎賓館、絵画館の後方建物高さに規制を与える条例が4月から施行されたようである。
ということでその3つの建物を駆け足で見てきた。すでに後方には建物がある。国会はもはや手遅れである。写真の通り赤坂に建っている保険会社のビルは中央の塔部に対抗した形状で、シルエットはかなり乱れてしまう。特に国会は建物前方の並木が少ないので不利である。国会に比べ他の二つは建物前方の並木が大きく長い。そのおかげで迎賓館後方六本木ヒルズ、絵画館後方慶応病院、どちらもうまく並木に消されている。
さて、3つの建物を見ながらこれらは何故選ばれたのだろうかと想像した。もちろんどれも大事な建物ではあるが、特にこの3つでなければいけない理由も無い?浅草寺?後楽園?重要文化財だって他にもたくさんある。
そう考えながら3つの共通点を考えてみた。すると、これらはシンメトリで前方にしっかり(まあ国会はしっかりでもないが)軸線と並木があって、vista pointが存在する。パースペクティブに見る場所が整っている建物なのだ。これはオーギュスタン・ベルクが指摘するまでもなく、近代西洋的風景の始まりである。そういう視点が輸入された記念すべき3つの場所なのであろう。確かに就学旅行生が記念写真撮るためにもせっかくのシルエットを乱してはいけない。だからこうした条例はそれなりに大事だとは思う。しかし僕がもっと興味深く思ったのは、国会から180度目線を回転させ、東京駅のほうを見たときの眺めだった。こちらは今や丸ビルを初め超高層ラッシュなのだが、そのスカイラインはとても連続的に山並みのように連なっているのである。「ああ、きれいだなあ」と素直に思った。連続的な形はそれなりにきれい。何故だろう?それはフラクタルと関係しそうな気がした。つまり自己相似性。人工物は自然物と異なり微小部分は必然的に連続形になる。それゆえ自己相似的に拡大したものはやはり連続的になるのでは?乱れた棒グラフのような形(スカイライン)はフラクタル(自己相似的)にはならないのではなかろうか?フラクタルだからきれいというのは短絡だが、フラクタルな方が、自然的とは言えるかも知れない。
話を景観規制に戻すと、近代初期の建物に対し近代透視図的視線の担保も必要だが、アフターモダンの建物に対する、21世紀の景観規制は何をどういう基準で考えたらよいのかというのもこれから考えなければいけないことだと思う。

2006年04月09日

バウハウスの質料論

ナギー蜂の巣ー表面構造小.jpg
構造 スズメバチの単房構造

ナギー老人の顔ー表面肌理小.jpg
肌理 アメリカミネソタ州の130歳の男

ナギーレコードの溝ー表面処理小.jpg
表面処理 レコード上のカルーソの高いド音 顕微鏡写真

ナギー油と水ー表面堆積小.jpg
堆積 水面の石油だまり

拙訳『言葉と建築』の空間の章を読むと「空間」なる言葉を建築の世界で意識的に使った最初はゼンパーだということになっている。だからそれはラウム(raum)だった。
彼は「建築にとっての最初の衝動は空間を囲むことにあると提案した」(『様式』、1863)そしてこの囲む空間論はオーストリアのロース、そしてアメリカに渡るシンドラーに受け継がれ、まだ「空間」という概念が無かったものの実質的に世界で最初に「空間」を作ったといわれるアメリカのライトのもとにいき、スペース(space)を感じ取った。
英語圏では『インターナショナルスタイル』1933においてさえ「空間」という言葉は登場しない。そこではご存知の通りvolumeという言葉が使われており、最初に英語圏で「空間」と言う言葉がモダニズムの重要な要素として登場するのは『空間・時間・建築』と言われている。1941年のことである。
さてその後ブルーノ・ゼヴィの『空間としての建築』など建築=空間という図式はポストモダニズムで顕在化するまで水面下で語られ続けた現象学的な空間論を尻目に圧倒的に支配的な概念であったといって間違いないだろう。

こうした空間主導の建築観への批判は特に80年代以降顕在化するが、私もその例外ではなかった。建築の質料感の訴求力を問題として、この空間・形式一辺倒の建築観への警鐘をこめて「質料再考」を数年前の某大美学科での講義テーマとした。しかし質料はモダニズム期に排除されたわけでもない、こうした人間のアンビバレンツな欲求は無くなることはなく、思考の傍流であろうと存在はしているものなのである。ミースの素材感とかコルの色彩感などは分かりやすい例だし、建築以外にも見受けられる。しかし彼らはあえてそれらを積極的にプロパガンダしてはいない。そこでもっと積極的にそうしたことを主張する人がいないかと思って注意していたら一人発見した。
モホリーナギである。「エッ」と驚く方もいるだろう。普通は逆にとられているもののようだ。『言葉と建築』ではナギの『ザ・ニュー・ヴィジョン』1928がその頃最も興味深い空間論と賞賛されている。フォーティも間違いなくナギを空間称揚論者と考えている。しかしナギが翌年出版している『材料から建築へ』バウハウス叢書14を読むと材料という章があり材料の表面論を延々写真入で解説しているのである。まるで僕の講義の「のっつる、のっざら、でこざら」のごとく、材料の表面の視覚作用に影響を及ぼす因子を分解して説明しているのである。

構造(ストラクチャー):材料の組み立て方。例えば金属は結晶性の構造を持つ
肌理(テクスチャー) :外へ向かって有機的に生じた全ての構造の末端面を肌理と呼ぶ
表面処理(ファクチャー) :外部から変更できる材料の表面
堆積(粗積み):合算される表面処理

という風に4つの因子をあげているのである。受容的に考えればこれは一言で肌理でよいのだと思うが、丁寧である。更に次の章には光という項目があり色が語られている。

バウハウス叢書。ちょっと高いが買っておいて良かった。

2006年04月01日

小川次郎の新作

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今日はとてもいい天気である。暖かく風も無い。小川次郎君の新作を拝見しに桜上水に行った。昔の自宅から徒歩5分くらいのところで懐かしかった。
勝手知ったる玉川上水の公園を突っ切り見慣れた住宅街にいいスケールの白い住宅だがある。南西角地で陽あたりが良い。S字型のプランの家である。「このプランは当初からあったの」と聞いたら「まあいろいろ考えた末。最初は北より南庭のプランなども考えた」とは本人。「ただ敷地の中央に2.5階建てのヴォリュームがふっと浮いたように作りたかった」とのこと。確かにそんな爽快感がある。2階に上がると北側隣地からも南側隣地からも離れていて開放感がある。この写真のテラス、2階も屋上も妙な浮遊感がある。室内は床のパイン材の白い染色が見事。壁天井は初めて見た本物の漆喰。今度使ってみたい。5千円/㎡以下だそうだ。大きな抱きの窓の水切りを外壁材で塗装していたのは結構冒険だが、見た目はいい。
さて褒めるだけでは片手落ちだろうから少し批判的な感想も記しておこう。これは坂本門下の一人としての自戒の念も含めた批判だが、全体的なトーンの日常性である。日常性の標榜はそこからの脱出があってこその残滓としてあるはずなのである。その抜け出し方が鮮明ではないように感じられたのである。これは先日岩岡さんの建物を見たときも感じたことである。もちろんプランニングその他で様々な異化をしつらえているのだが、ベースは坂本じこみの日常性である。
先日坂本先生の博士論文を再読したが、その骨子は建築の図像性にはステレオタイプ化(類型化)し社会的な垢のような意味を帯びる場合と祖形化し創造的な象徴性を帯びる場合があり、自分の建築はもちろん前者を廃し、後者を創造することにあるというもので、その手法は異化作用であると記している。異化作用はいうまでもなくロシアフォルマリズムの文学理論であり、英語ではdefamiliarization であり、慣れ親しんだものをそうではなくする作用なのである。その意味では最初の状態は日常でいいのだが、そこからそうではない状態へと変形する操作が必要なのである。そこへの跳躍が日常を標榜する建築には必須のハードルとしてあるべきなのでる。一体それは何なのか?自問であるとともに最近見た坂本スクール建築への問いである。