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小川次郎の新作

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今日はとてもいい天気である。暖かく風も無い。小川次郎君の新作を拝見しに桜上水に行った。昔の自宅から徒歩5分くらいのところで懐かしかった。
勝手知ったる玉川上水の公園を突っ切り見慣れた住宅街にいいスケールの白い住宅だがある。南西角地で陽あたりが良い。S字型のプランの家である。「このプランは当初からあったの」と聞いたら「まあいろいろ考えた末。最初は北より南庭のプランなども考えた」とは本人。「ただ敷地の中央に2.5階建てのヴォリュームがふっと浮いたように作りたかった」とのこと。確かにそんな爽快感がある。2階に上がると北側隣地からも南側隣地からも離れていて開放感がある。この写真のテラス、2階も屋上も妙な浮遊感がある。室内は床のパイン材の白い染色が見事。壁天井は初めて見た本物の漆喰。今度使ってみたい。5千円/㎡以下だそうだ。大きな抱きの窓の水切りを外壁材で塗装していたのは結構冒険だが、見た目はいい。
さて褒めるだけでは片手落ちだろうから少し批判的な感想も記しておこう。これは坂本門下の一人としての自戒の念も含めた批判だが、全体的なトーンの日常性である。日常性の標榜はそこからの脱出があってこその残滓としてあるはずなのである。その抜け出し方が鮮明ではないように感じられたのである。これは先日岩岡さんの建物を見たときも感じたことである。もちろんプランニングその他で様々な異化をしつらえているのだが、ベースは坂本じこみの日常性である。
先日坂本先生の博士論文を再読したが、その骨子は建築の図像性にはステレオタイプ化(類型化)し社会的な垢のような意味を帯びる場合と祖形化し創造的な象徴性を帯びる場合があり、自分の建築はもちろん前者を廃し、後者を創造することにあるというもので、その手法は異化作用であると記している。異化作用はいうまでもなくロシアフォルマリズムの文学理論であり、英語ではdefamiliarization であり、慣れ親しんだものをそうではなくする作用なのである。その意味では最初の状態は日常でいいのだが、そこからそうではない状態へと変形する操作が必要なのである。そこへの跳躍が日常を標榜する建築には必須のハードルとしてあるべきなのでる。一体それは何なのか?自問であるとともに最近見た坂本スクール建築への問いである。

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