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2007年03月26日

aomori

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地方都市の中心市街地の空洞化は長野でいろいろと問題となっている。この間の塩尻のコンペも市街地空洞化を防止する起爆剤としての市民交流施設を作ろうとするものだった。しかし青森にくると長野などかわいいものだと感じる。青森はひどい。県庁所在地でここまでなるかという気がする。40年以上前小学生のころ毎年夏には来ていた場所である。そのころ駅前はもっと活性化していたように記憶する。40年でこうなったかという感じだ(と言っても実証しているのではなく記憶の中の甚だ印象的な比較でしかないのだが)。
さて以前パリのレンガの本を買ってレンガの目地の話をした。目地とはパターンでありそれは装飾だと書いたが、レンガを使って目地を消している青森の美術館にその時突如興味が湧いた。そこで青森美術館の作品集を買った。その作品集では建物の写真として空間ではなくむしろ部分的、素材を見せるようなものが意図的に使われている。それは設計者の意図でもある。質料が浮き上がるような作り方を狙っている。きっと本物もそうなのだろうと想像した。つまり部分がふーッと眼に飛び込んでくるような建物なのだろうと思ったのである。それはそんな難しいことではなく、部分部分の素材感とかディテールとかのほうが全体の構成よりも強く浮き出るようにバランスさせられているということである。
しかし本物はそうでもない。もちろん部分というのが意識させられる瞬間はある。しかしそれ以上に構成が強く見えてくる。パースラインがとても強く感じられる。それは質料を見せるために使われた剥き出しの土が土を意識させる前に白い壁との対比となって見えてくるからなのである。
もちろんだからと言ってこの建物の評価が下がるわけでもない。意図したことが変容した結果となったということである。それはメディアテークと同じようなことかもしれない。

2007年03月21日

ダ・ヴィンチ

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大学のt先生から国立博物館にダヴィンチが来ると聞いていた。昨日からではないか。天気もいいし行ってみることにした。受胎告知に描かれた背景の山が面白いとt先生は言っていたが、いったいその山は何なのか?かみさんに「受胎告知」見たことある?と聞いたら「ウフィッチで見た」と言う。誘おうと思ったが見たのではしょうがない、一人でふらりと出かけた。
21日の上野は暖かく桜は未だだが、すごい人である。都美でやっているオルセーは30分待ちと駅前で案内が出ている。おー恐ろしや。この分じゃ「受胎告知」はどうなることやら?しかし幸いこちらは10分待ち。
ダ・ヴィンチの本物を見たのは2回目。保存状態が本当に良い。色がとても鮮明である。一点透視の頂点に山がありその山が最後の晩餐の山を思わせるらしい。構図が面白いのは透視図的なパースラインをさえぎるように天使ガブリエルの後ろに変な形の木が5~6本立っているところ。山をイエスに見立てて象徴的に扱うにしてはこの樹は何なの?という感じである。
さて旧館にこれひとつだけがとても大事そうに展示されていて、他の展示は新館のほうである。こちらはオリジナルなものはほとんど無くダ・ヴィンチについてお勉強できるように展示されている。科学者として建築学者として解剖学者として形態学者としてのダ・ヴィンチが解説される。
ウィトルウィウスを再読して、人体の比例関係を更に深く分析しその中から人体比例の法則を見つけた。機械を発明し、幾何学が導く形の法則を発見する。比例、法則、機械、幾何学、調和、均衡。こうしたキーワードが並ぶ。しかし彼の尊ぶ幾何学の均衡と調和のようなものは何なのかと問うてみたくなる。それは機械とは何かという問いでもあるのだが、それは結局反復運動を可能にするルールの作成ということになる。ルール=法則というのはその時点で重要な役割を持つ。そして形あるものの法則を可能にするものは幾何学ということになる。そうしたルール、幾何学、がこの時代の認識論の基礎にあり、そして感性的な問題とこの認識を架橋するものが数学であったというのはまあ何もルネサンスに限ったことではないのかもしれないが、ダ・ヴィンチを見ているとそのことは強く感じる。数学というのは便利な道具だったのではなかろうか、数学つまり造形芸術で言えばそれはプロポーションという概念に置き換えられるのであろうが、感性を裏付ける証拠として数字は分かりやすい道具だった。
なんてダ・ヴィンチを見ながら思いつつあまり真剣に展示を見ることも無く外に出ると西洋近代美術館ではルネッサンスの版画展というのをやっている。ふらりと覗く。ルネッサンスの時代に版画は自作を世に知らしめるためのメディアとして重要であり、版画によって作品はヨーロッパ中に伝播したというのは面白い話だった。

2007年03月11日

fiction for the real

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やなぎみわ 《案内嬢の部屋1F》 1997年 京都国立近代美術館所蔵

やなぎみわの作品をその昔岡本太郎美術館で見たことがある。面白い名前だなとそのころは思っていた。
今朝起きてひどい雨だった。こういう雨は気が滅入るけど久しぶりに近美に行ってみようかと思ってネットを見ると、やなぎみわの名前が眼に入った。Ficton for the real というタイトルで やなぎみわ、 イケムラレイコ、ソフィ・カル、塩田千春の作品が並べられているようである。
天気が悪いせいか人はあまりいない。展覧会の趣旨は90年代世の中のリアリティが見えにくくなった時代にアーティストはどのようにしてリアリティを見つけ出そうとしたか?という問いかけから、彼女ら4人がfictionalな表現を通してそこに近づこうとしているというものである。そんなことは現代の美術じゃ多かれ少なかれ当たり前だよなと思うのだが、まあそう決め付けずに素直に鑑賞する。
やなぎみわの作品はエレベーターガールが沢山のドアが開いたエレベーターの周囲に放り投げられたマネキン人形のように散乱している(マネキンか人間かよく分からない)。また動く歩道の上にこれまた沢山のエレベーターガールが寝てたり、座り込んだりしている。その側壁は花屋のショーケースになっている。もちろんこんなことは世の中にはまず存在しないという意味ではfictionalなのだが、、、ただ花屋のショーケースはなくとも花柄の広告が両側を埋め尽くすような情景はあるし、瓜二つのエレベーターガールが座り込んでいることはないだろうが、エレベーターで隣にいる人が匿名的な「都会人」という無個性な「もの」であるという意味ではそれをエレベーターガールで代用しても特に違和感はない。その意味ではわれわれの心象風景としてはこれがfictionなのかrealなのかは確かに定かではない。塩田千春の泥をかぶるパーフォーマンスビデオもそれだけ見ていると泥修行のような特異な光景に見えるけれど、道路工事の土工の表情にも見えてくる。都会のリアルな一風景と読めなくも無い。
つまり美術館という文脈の中に置かれるとこれらがひどくfictinonalなものに見えたとしても日常の都会的な情景に当てはめてみると、実はいろいろと思い当たる節があるようだ。その意味で確かにこうしたもののほうが僕らにとってrealなのだと言われるとそうなのかもしれないと思えてくる(と読まれることがこの企画の狙いかどうかはよく分からないが)。

2007年03月05日

荒木町のとんかつ屋さん

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話が自由論の権利義務のところに行くと僕には良く分からない領域に入ってしまうのだが、単純に、人は慣れ親しんだ風景を権利として持っているという議論はよく分かる。景観権というものである。しかしこれは未だ裁判上なかなか権利として確立していないようである。もちろん誰もが認める歴史的な建物の集まった街区の風景とか大自然とか言うものにはある種の権利が認められたり、客観的にあるいは多数決でもその権利を守ろうとする傾向はある。しかし誰もが異口同音にすばらしいというような風景でない場合でもその風景に長年慣れ親しんだ人にとってその風景とはその人の人格の一部であるという考え方がある。それは松原隆一郎の展開している議論だが、僕は共感している。生きられた家があるなら、生きられた風景があると思っている。ナンシーの「はるかなる都市」の解題で僕が書きたかったことはまさにこういうことである。(そういえばこのジャン・リュック・ナンシーの本は2月中に出版される予定だったが、まだ発売されていないどうなっているのだろうか?)風景や都市と人間は共同するということなのである。それゆえそういう人格の一部となった風景はぼろくともなんでも勝手に破壊されていいものではないと思っている。親しんでいる人がいるなら了解がひつようであろう。それは壊してはいけないという議論ではないし、なんでもかんでも残すほうがよいという議論とはまったく異なる。歴史的なものは残して汚いものは残さないという二分法はナンセンスだと言いたいだけである。
さてそんな風景を近くで一生懸命残そうとしている人がいる。荒木町のとんかつ屋「鈴新」の親父さんである。この店には陣内秀信とその研究室の学生が来て調査したり、ダムダムが来て調査したり、女子美の学生が来て町並み計画作ったり、デブやのテレビに出たりと話題の多いお店なのである。この店のそばにあった万世はいい店で花見の名所だったが去年マンションとなり、はす向かいの数件はまとまってマンション業者に最近売られたようである。東京からこうした裏の楽しい場所が消えていく日も近い。しかし新しいところもいつかは古くなる。新たな裏がどこかにできていくのかもしれないが。