ダ・ヴィンチ
大学のt先生から国立博物館にダヴィンチが来ると聞いていた。昨日からではないか。天気もいいし行ってみることにした。受胎告知に描かれた背景の山が面白いとt先生は言っていたが、いったいその山は何なのか?かみさんに「受胎告知」見たことある?と聞いたら「ウフィッチで見た」と言う。誘おうと思ったが見たのではしょうがない、一人でふらりと出かけた。
21日の上野は暖かく桜は未だだが、すごい人である。都美でやっているオルセーは30分待ちと駅前で案内が出ている。おー恐ろしや。この分じゃ「受胎告知」はどうなることやら?しかし幸いこちらは10分待ち。
ダ・ヴィンチの本物を見たのは2回目。保存状態が本当に良い。色がとても鮮明である。一点透視の頂点に山がありその山が最後の晩餐の山を思わせるらしい。構図が面白いのは透視図的なパースラインをさえぎるように天使ガブリエルの後ろに変な形の木が5~6本立っているところ。山をイエスに見立てて象徴的に扱うにしてはこの樹は何なの?という感じである。
さて旧館にこれひとつだけがとても大事そうに展示されていて、他の展示は新館のほうである。こちらはオリジナルなものはほとんど無くダ・ヴィンチについてお勉強できるように展示されている。科学者として建築学者として解剖学者として形態学者としてのダ・ヴィンチが解説される。
ウィトルウィウスを再読して、人体の比例関係を更に深く分析しその中から人体比例の法則を見つけた。機械を発明し、幾何学が導く形の法則を発見する。比例、法則、機械、幾何学、調和、均衡。こうしたキーワードが並ぶ。しかし彼の尊ぶ幾何学の均衡と調和のようなものは何なのかと問うてみたくなる。それは機械とは何かという問いでもあるのだが、それは結局反復運動を可能にするルールの作成ということになる。ルール=法則というのはその時点で重要な役割を持つ。そして形あるものの法則を可能にするものは幾何学ということになる。そうしたルール、幾何学、がこの時代の認識論の基礎にあり、そして感性的な問題とこの認識を架橋するものが数学であったというのはまあ何もルネサンスに限ったことではないのかもしれないが、ダ・ヴィンチを見ているとそのことは強く感じる。数学というのは便利な道具だったのではなかろうか、数学つまり造形芸術で言えばそれはプロポーションという概念に置き換えられるのであろうが、感性を裏付ける証拠として数字は分かりやすい道具だった。
なんてダ・ヴィンチを見ながら思いつつあまり真剣に展示を見ることも無く外に出ると西洋近代美術館ではルネッサンスの版画展というのをやっている。ふらりと覗く。ルネッサンスの時代に版画は自作を世に知らしめるためのメディアとして重要であり、版画によって作品はヨーロッパ中に伝播したというのは面白い話だった。