fiction for the real
やなぎみわ 《案内嬢の部屋1F》 1997年 京都国立近代美術館所蔵
やなぎみわの作品をその昔岡本太郎美術館で見たことがある。面白い名前だなとそのころは思っていた。
今朝起きてひどい雨だった。こういう雨は気が滅入るけど久しぶりに近美に行ってみようかと思ってネットを見ると、やなぎみわの名前が眼に入った。Ficton for the real というタイトルで やなぎみわ、 イケムラレイコ、ソフィ・カル、塩田千春の作品が並べられているようである。
天気が悪いせいか人はあまりいない。展覧会の趣旨は90年代世の中のリアリティが見えにくくなった時代にアーティストはどのようにしてリアリティを見つけ出そうとしたか?という問いかけから、彼女ら4人がfictionalな表現を通してそこに近づこうとしているというものである。そんなことは現代の美術じゃ多かれ少なかれ当たり前だよなと思うのだが、まあそう決め付けずに素直に鑑賞する。
やなぎみわの作品はエレベーターガールが沢山のドアが開いたエレベーターの周囲に放り投げられたマネキン人形のように散乱している(マネキンか人間かよく分からない)。また動く歩道の上にこれまた沢山のエレベーターガールが寝てたり、座り込んだりしている。その側壁は花屋のショーケースになっている。もちろんこんなことは世の中にはまず存在しないという意味ではfictionalなのだが、、、ただ花屋のショーケースはなくとも花柄の広告が両側を埋め尽くすような情景はあるし、瓜二つのエレベーターガールが座り込んでいることはないだろうが、エレベーターで隣にいる人が匿名的な「都会人」という無個性な「もの」であるという意味ではそれをエレベーターガールで代用しても特に違和感はない。その意味ではわれわれの心象風景としてはこれがfictionなのかrealなのかは確かに定かではない。塩田千春の泥をかぶるパーフォーマンスビデオもそれだけ見ていると泥修行のような特異な光景に見えるけれど、道路工事の土工の表情にも見えてくる。都会のリアルな一風景と読めなくも無い。
つまり美術館という文脈の中に置かれるとこれらがひどくfictinonalなものに見えたとしても日常の都会的な情景に当てはめてみると、実はいろいろと思い当たる節があるようだ。その意味で確かにこうしたもののほうが僕らにとってrealなのだと言われるとそうなのかもしれないと思えてくる(と読まれることがこの企画の狙いかどうかはよく分からないが)。